2011.07.17 小宮 春菜 被災地ボランティア体験レポート
           町田市議会議員 吉田つとむ 研修生

<被災地でのボランティア活動を通して>
         第28期研修生 小宮春菜 国際基督教大学(ICU)3年

・期間: 2011.06.19~25
・ ボランティアへのアクセス方法:niccoと、Youth for 3.11の二つの団体が提携し、提供 するプログラムへの参加を通して。
10期目として、学生総勢21名で被災地に向かった。

・宿泊場所:岩手県一関市の、niccoという団体が借りているアパート(被害は少ない)
・活動内容:1.気仙沼での、ガレキ撤去および、気仙沼漁港でのコンテナ清掃
        2.気仙沼の避難所での、炊き出し補助
・ 食事:炊き出しのグループが持ち帰った、炊き出しの残り物や、みんなで自炊をしてつくったものを食べる
・ 参加費:なし。食費、宿泊費、移動費、等、全てなし。募金等によって成り立っている、niccoさんが負担。


1.ボランティア参加のきっかけ

・ 何よりも、被災地のために何かができたらと思った。
・ 大学の多くの教授や先生方に、「3.11以降だいぶ時間がたっているにも関わらず(5月中旬から6月初旬にかけて多く言われた)、未だ被災地に行こうともしていないなんて、みなさんにとって今回の震災は所詮『他人事』に過ぎないんですね。」と何度も言われたことにより、奮起させられた。
・ メディアを通してではわからない、「におい」や「感覚」を通して被災地を感じることに、大きな意味がある、ということを教えられ、それを実際に感じたかった。
・ これからの日本を担ってゆく若者の一人として、被災地にゆき、主体的に被災地というものを捉え、何かを感じ取る、ということが必要とされていると思ったし(だから教授たちもあんなにも「被災地に若者はいけ」ということを口うるさくおっしゃったのだと考えている)、自分自身、若者の一人として被災地にいく、ということに意味があると考えた。

2.ガレキの撤去作業を通して

個人経営の、電気店の店内瓦礫撤去、泥かき、まだ使える用品の清掃等の仕事を頂いたときのことである。その場所では、店の3つあるシャッターのうち2つは動かず、一つのみが開き、そこから店内に散乱したたくさんのゴミを(津波でもってこられた、よそのうちのものが多い)撤去し、店の外に燃える、燃えない、まだ使える、で仕分けをしながら置いてゆく、という作業をした。店内の状況は本当に悲惨であり、たくさんのコードや、電化製品の破片や、無数のゴミ、そして泥で店内中が埋め尽くされており、店の奥へ足を伸ばすことも困難であった。きをつけて歩かなければ床に釘やガラス片が散らばっている可能性もがあり怪我をするため、非常に慎重に一歩一歩を踏み出さねばならなかった。もちろん危険なのは足元だけではなく、全身に怪我をする可能性があったため、店内はまさに蒸し風呂状態であったにもかかわらず、全員マスク、暑いレインコート、といったいでたちで作業を行った。「毛穴以外の毛穴から汗が湧き出てる」「後にも先にも、ここまで汗をかくことはないのでは」と表現したひとがいたが、それほど猛烈な暑さであった。
本来なら粉塵対策として粉塵メガネをすべきのようだったが、メガネがマスクのせいで曇りにっちもさちもいかなくなるため、粉塵マスクをする人はいなかった。
まず、ガレキA班は店内で散乱したものを店外へ移動させる作業をし、B班はその運び出されたゴミを燃える、燃えないに分別し、その上今後も使えると判断されたもの(開始後1時間ほどで、依頼者の女性が来てくださった)をホースの水で根気よく清浄する、という作業をする、というように分担がされ、9時過ぎごろから作業が始められた。
私はA班なので、店内の清掃だ。やはり電気店ということもあり、重い電化製品等も多々あり、それはメインで男子が運び出し、その他の割と軽量なものを女子が運び出す、ということを行った。若い力の集結であるからか、好調に作業がすすんだ。2時ごろには完全に店内のものは全て運び出され、多くの泥もかきだされることができた。

ところで、事前の「ガレキ撤去作業を行う際に、注意して行いたいこと」として決められた約束ごとがあった。それは、「作業中も、元気で明るく、楽しく」ということと、被災された方たちの気持ちにたって、言動等気をつける、ということだった。事前研修の際に、以前にこのプログラムに参加された方が、「作業中もみんなではなしたりして楽しくやるのがいい」という風にアドバイスを頂いていたためだ。また、私たちがわーわー楽しそうな雰囲気で作業を行っていれば、依頼された方も楽しい気持ちになっていただけるのでは、と感じたためだ。
最初、私はその二つはすぐに守られると思っていた。少なくとも後者の方は、絶対の自信を持って、被災地に向かった。絶対に被災された方に「ご家族のかたは今どうされていますか?」なんて発言しない自信があった。
しかし、上記の2点を、私たちが常に守られていたかというと、決してそうではなかったように思う。というのも、私たち自身、もう暑さや疲れや、「時間内に出来る限り終わらせたいからしゃべるよりも動く」いった感情から、ひたすら作業に個々人打ちこんでいたためだ。もちろん、楽しそうに作業を行っている風景を、被災された方を前にすることは実際被災地にいったらあまりすべきではないことのように感じられたため、そもそもの「気をつけること」が実際にあっていないものだったのかもしれないが。
また、あまりに汚れた店内に散らばるものを手がけているにつれ、すべてが単なる「ゴミ」に見えてきてしまい、自然に「はい、これ燃えるゴミ」と発言したり、まるでごみを取り扱うかのように、乱暴に店内のものを店の外に投げ出したりしてしまっていた。これは、完全に「被災されたかたの感情を考える」というルールを破っていたものだった。その一見「ゴミ」と思われるものも、依頼者にとってはかけがえのないものであるし、決して粗雑には扱われたくない、ということを完全に忘れていたのだ。被災されたかたの気持ちをまったくかんがえていなかった。このことを、実際にそのものの持ち主の女性に指摘され、私たちは始めて気がついたのだ。全員、とても申し訳ない、ふがいない、悲しい気持ちになった。
しかしその反面、気仙沼・大島でのガレキ撤去作業では、名前入りの小学生の教科書だとか、決して「ゴミ」だなんて考えたくないような、生活感の強い、生々しいものの数々が多く散らばっていた。しかし、それを、電気店のときとは反対に「ゴミとして」取り扱うことが求められた。
ここでは奇麗事だけじゃあ治まらない。こころを鬼にして、細かい部分は見えない振りさえもして、ことにあたっていかなくてはならない。そのことを強く感じた。

3.活気の重要性


電気店の依頼主は本当にパワフルな女性であり、とても溌剌としていた。
その人は当然自分の生活の基盤であった電気店に壊滅的被害を受けており、そのうえ、お手洗いをお借りするために家の中に上げていただいたのだが、その家の1階の床の板は無くなり格子状の枠組みだけがあり家の中も深刻な被害を受けられていた。にもかかわらず私たち学生相手に非常にぐいぐい絡んでくる方で、非常に明るい方だったのが印象的だ。
 勝手な解釈だが、その女性は、私たちとの会話やら、一緒に笑うことや、そこから生み出される「活気」のようなものから、少なからず元気を得ようとしていたのではないだろうか。もちろん作業中はそのような笑い声などといった活気はほとんどなく、懸命にみんな動いていた。しかし、いったん作業が終われば活気をたくさん生み出したくさん笑ってたくさん会話をした。そんな外からの活気を与えることも、ボランティアの役割のひとつであるように感じた。
炊き出し班のメンバーが、自分たちのおしゃべりによって、被災されながらも炊き出しの仕事をしていらっしゃったコックさんがたを元気づけた。
その炊き出しの場所のコックさんがたは、とても無口だった。笑っても、かすかで、とても静かに作業を行っていた。だがその横で、炊き出し班はけらけら笑いながら、作業のお手伝いをしていた。
最終日、その炊き出しのメンバーは、「元気をもらった。自分たちが、自分で元気を取り戻さなくてはならないと思った。ありがとう。」とおっしゃっていただいたのだと言う。
活気を与える。それも、若者ならでは簡単にできる、ひとつの大切なすべきことなのかもしれない。

4.避難所で感じたこと

避難所の廊下のベンチに、座ったり寝転がって避難所生活を送る2人の男性の顔が忘れられない。目はうつろで、顔に生気があまり感じられないように思った。疲れきっている、といった感じだ。その他大勢の避難所に住む方々がいる、部屋の中の仕切られたスペースには、「部屋の中」であり、「部屋の中の仕切られた部屋」といった具合で、まだその人の「私空間性」が感じられるように思う。しかし、廊下で避難所暮らしをする方々は、「私空間」というものがまったく感じられない場所に住んでいらっしゃったように感じた。目の前をひっきりなしに見知らぬ人間が通りぬける。おちおち眠れもしないだろう。
 どのくらいあの空間で過ごされてきたのかはわからないが、もしもあんな空間で震災発生日からその日まで過ごされてきたのだとすれば、その人が抱えるストレスは、もう限界寸前にまで達してしまっているのでは、と考えざるを得ないように思う。
 仮設住宅が良いのか、ということに関して、議論は必要であり、一概に仮設住宅にはいたらいいとは言えない部分もあるかもしれない。しかし、私空間の確保という側面だけを見たら、即急に、彼らを仮設住宅に住まわせることが望ましいように個人的には思った。心が深刻なダメージを受けてしまう前に。


5.最後に

一体、私たちに何ができたのだろう、と思うところが大きい。
私たちは、むしろ得たものの方がうんと大きく、被災地に与えられたものは、ほんの微量であった。まさに「無力感」を感じ、大きな震災を前にして、いかに自分がちっぽけで役立たずな人間であったか、ということを強く思った。特に、5日間のうち、2日間は雨が降って仕事を貰えず、なんの作業もできなかったメンバーがいた。(私も、最終日は何もできなかった。)そんな状態なのだから、そう思うのは無理がない。
もちろん、何の特別な技能もないただの学生の有志が集まって、被災地へ向かってみたところで、何もできないことは判りきっていた。だけど、もっと何かできると思っていたのだ。
そんな私たちでも、できたこと。考えたこと。それは、「自分たちが語るから、意味がある。」ということだった。
自分の身近な人たちだけであっても、身近な人に情報を発信する。メディアが語るのでは、同じことを見ていても、与える意味合いが違う。自分たちの言葉で、自分たちの感じたことを語ることで、相手の心に強く訴えかける「何か」が生まれるのではないだろうか。それをすることで、私たちが行った意味が生まれるのでは、と感じた。
 また、ある人はこういった。「一体誰が、その人が行ったことが無力なことであったか、ということを判断するのだろうか」。
その活動を受けた人間は、その人の行った行動はとても意義がある、ということを感じたかもしれない。だとすると、その行動は、本当に無力であったといえるのか。
 また、それでも無力だったと感じたとしても、それを成長の糧として利用してゆくことが出来たらそれでいいのでは、ということだ。これからを生きる若者が、これからの日本をつくってゆくのだ。そんな若者たちが、もしも無力感を感じたとしても、今回の被災地入りから多くのものを得ることができたのならば、長期的な視点であっても、それだけで大切な「意味」が生まれたのでは、という結論に至った。

私たち若者、21人は今回、募金によって支えられている団体の援助を受けながら、一週間のボランティアをすることが出来た。その援助していただいた金額やスタッフさんの労力は計り知れない。しかし、その恩を現地ですべて返せたなど、とてもじゃないが、いえない。
その恩へ報うには、その後の私たちの活動が物を言うのだと思う。
私の仲間の中にも、たくさん行動し始めた人たちがいる。すごい。私も、出来る限り、頑張ってこの経験を生かして生きたい。



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