私が登場した「サラリーマン新党」福岡で第一歩の記事
 西日本新聞(昭和58年3月13日付け朝刊)
 記事の中見出し きょう新党説明会
  記事の中見出し 九州からも候補 全国の拠点に据えて
  014(06/10/07) 



 一昨日のことですが、妻が自分の実家(福岡)に帰った折、私のことが掲載されている昔の新聞記事(昭和58年)を持ち帰ってくれました。当時、私はサラリーマンであり、参議院選挙に導入される比例代表選挙に向け、「サラリーマン新党」旗揚げの運動に深くかかわっていました。九州の福岡は、その新しい政党結成の運動中心地の一つでした。
 
 新聞記事は、その現物を切り抜きアップしますが、主要な内容は、参議院選挙にチャレンジするサラリーマン新党の説明会を福岡市で開催するというものです。1月末に新党結成の名乗りを上げ、青木茂代表(7月の選挙で初当選することになる)らが日本列島縦断のキャンペーン中で、「福岡県下の手ごたえは予想以上。活動も一番先行している」(新党結成準備委員会)としている。

 この記事は、当時の私の活動状況を述べたものですが、ポケットベルの呼び出しを気にしながら”一人二役”をこなしていると、時代を反映する通信手段のことが書かれました。(携帯電話はまだありませんでした)

 また、一般にはこうした新党の動きにほとんど関心がないと見られることに対して、新聞記者は、次のように書いています。

< 新党推進側の熱っぽさはかなりのものだが、投票する一般サラリーマンの反応は? 「サラリーマン新党の名前を聞いたことがある程度で、正直言って知名度は低い。しかし、重すぎる不公平税制、六年連続の所得税見送りと、サラリーマンの怒りが爆発しており、潜在支持者は多い。新党を結成すれば、共感を呼んで一気にブームが起きますよ」と吉田さんと自信たっぷり。> 以上、引用。

 その後、記者さんは、従来のタテ型組織に対して、新党の目指すヨコへの広がりがどこまでできるのかどうか。続けている。さらには、供託金合計四千万円の調達も難関としている。

 総じて、記者さんは、サラリーマン新党の動きに距離を置いた感じの評価をしているが、なぜかそれにしては大きな記事を書いている。私が思うに、私の話の半分には共感を持ったためでしょう。後の半分は、ドンキ・ホーテの話という判断をされたのでしょう。

 この年の7月の選挙では、サラリーマン新党は199万票と言う驚異的な得票を得て、青木茂・木本平八郎(八木大介)の2名の参議院議員が誕生しています。私もその時の10名の名簿搭載者(戦士)の一人でした。なお、当時忘れてならないのは、名簿搭載3位の小林喜幸氏と言う人物が九州出身で全国を奔走し、その基礎を築いたことでした。彼の存在なしに「サラリーマン新党」が立ち上がったかというと、半分の確率だったでしょう。今はどのようにされているかさえ知りませんが、小林氏と彼が役員を務めていた零細企業の存在なしには、「サラリーマン新党」発足自体の運動も正味のないものなるでしょう。とは言え、現実はクールであり、結果のみが優先されるのが常だと私も理解しています。

 私はその後、この58年の参議院比例代表区の名簿搭載者(候補者)として全国を遊説することになりました。文字通り、九州から北海道まで宣伝カーを運転し、街頭演説を実行し、さらには各県庁において記者会見をこなしていました。その選挙で、サラリーマン新党は2名の当選者が出ました。私は、その一人の当選者である木本平八郎(八木大介)参議院議員の第一秘書兼、党の事務局員となりました。党の事務局は、もう一人の女性とたった二人だけの体制でスタートしました。そのため、福岡より上京することなり、新天地東京で暮らし始めました。当時、公設秘書には政策秘書はなく、私はその部門も少々担当していました。その後の私は、衆議院議員選挙に2度立候補し、あえなく敗退しています。その後、町田市議選にも立候補しますが、それまた落選。つまり、選挙でいうと、全部で連続4度の落選を経験しました。

 財政的にも崩壊(破綻)状態でしたが、当時都議会議員であった阿部俊之氏に手を差し伸べていただき、その事務所で仕事をさせていただきました。仕事という生活上の面でも、また、地方政治を改めて身近に見る面でも、阿部阿部俊之氏には言い尽くせないお世話になりました。

 その後再起を目指し、前回の落選から4年後、細川政権下で自由民主党公認で町田市議選に立候補し、下位ながら当選することができました。その後、地盤を固める一方でインターネットに力を注ぎ、おかげ様で上位での当選を続けています。当選4期。

 さて、ノスタルジアに浸っている余裕はありません。その参議院選挙もいよいよ来年のことになりました。