● 資料 新たな国民政党の創建をめざして

 「国民政党期成同盟」呼びかけ文書についての前書き

 昭和52年当時に、私たちが結成した「国民政党期成同盟」が、その組織の考えを明らかにするために作成した文書の全文です。当時の記憶では同本を国会図書館にも送付しており、現在も収納されているものと考えます。

 この文書は全文で3万5千字に及び、HP記事としては分量が多すぎますが、下段の理由で掲載するものです。「要旨・新しい国民政党の創建をめざして」と言うタイトルで別ページに、9月中に掲載する予定です。歴史的な文書であるため、原本に合わせた要約となるでしょう。

 掲載理由は、次の通りです。私は自由民主党に党員として籍を置くわけですが、党活動の一端を担う地方議員として、「自由民主党は国民に対して、地域住民に対してどうあるべきか」をいつも見つめ直すことにしています。そうした考えを持つに至った原点になる文書として、この「新たな国民政党の創建を目指して」を再度皆さんの目に触れる場所に置くことに致しました。もちろん、この文書は私が自由民主党に参加する以前のものであり、自分自身が自由民主党に所属している今、この考えと全て同じと言うことはあり得ません。むしろ、自由民主党はその柔軟性によって、国民や住民から寄せられる批判にこれからも応えていけるものと考えています。

 以下の文章は、「新たな国民政党の創建をめざして」文書の本文を平成11年7月にOCRで読み込み、今回復刻したものです。原文と相違点があれば、校正した吉田勉の責任です。

◎ 「新たな国民政党の創建をめざして」本文 

1、はじめに

 こんにち、わが国の政治は、未曾有の試練のなかにあります。

 概括すれば、わが国の政治は、その制度・運用ともに欧米の経験に追随する、という方法で行われてきました。とりわけ戦後の政治体制は、欧米における歴史的な政治経験のひとつの決算ともいうべき、民主主義の全面的な採用による、いわゆる「戦後民主主義」と総括されるような形式のもとにあります。この形式としての「戦後民主主義」のもと、さらにはわが国独特の諸政治勢力の競合、すなわち、保守主義を標榜する「永久」与党と、社会主義体制への移行を主張する野党の対立、という政治状況のなかでわが国は、戦後復興、さらには経済の高度成長をもなしとげ、有数の「経済大国」として今日に至っております。


 周知のように、経済の高度成長の過程は、物的生産性を暗黙の基準としたかのような社会全般にわたる政策の斉一化が並進し、その結果はこんにちに至って解決すべき、いくたの困難なもんだいを生じせしめております。さらに、価値観の多様性・多様化傾向が定着する一方、その背後においては、わたくしたち国民がそれぞれの「価値」を追求する諸活動を保障する、物的資源への価値の収斂、一元化が進行するなかで、わが国の政治は従来経験し、解決してきた状況・もんだいときわめて異なった状況・もんだいに直面し、その解決を要求されているのであります。この、まさに画期的というべき時機において、わが国の既存の諸政党は、このような状況の変化に対応するもんだい解決の方法を提起する、という基本的な任務を果すことはおろか、新しい方法の提起の緊要性すら自覚し得ていないといわねばなりません。


 このような政治状況は、かねてわが国が陰に陽にその経験を摂取してきた欧米の諸国にも共通しており、民主主義は、それを政治制度として採用しているすべての国において、わが国におけると同様、もんだい解決の能力を問われているのであります。


 これらの把握が正しいと仮定すれば、こんにち、わが国の政治は、日々生起する諸もんだいの解決という任務ともうひとつ、それと異なったレベルにおけるもんだい、すなわち、現行解決ルールの批判的な再検討かよび処置、という問題に直面しています。
 この課題の解決にあたって、手本とすべき「先進国」は存在しません。わが国は、独自の努力によってこの課題を解決しなければなりません。まさにこのことが冒頭において指摘した、わが国の政治が直面している未曾有の試練のゆえんであります。

 端的に「保革伯仲」ということばによって象徴される政党政治の現状は、一部の論者が指摘するように、単に自由民主党の、あるいは保守主義の危機という把握によって対処し得る水準にあるでしょうか。わたくしどもはこのような把握と深く見解を異とするものであり寸す。多くの先達、先憂諸氏とともに、わたくしどもは、こんにち直面する政治の方法をめぐるもんだいは、既存のあれこれの党派の消長によって解決され得る、と判断しておりません。むしろ、既存の諸党派がそれぞれ一因子として構成しているところの現下の政治構造そのものが問われている以上、これら諸党派の現状認識の変化を前提とした自己批判、自己改革がなしとげられないかぎり、これら諸党派の存在は、まさに解決すぺきもんだいを構成するものといわねぱなりません。


 議会制民主主義のもとにおける方法の水準をめぐる混迷の分析分よびそれをふまえた新たな方法の模索・確立への努力こそ、こんにちのわが国における、政治の、それ自体にかかわる重要かつ緊急の課題であります。


 こゝでまず第一にもんだいとしなけれぱならないのは、現下の政治状況、すなわち従来採用されてきたもんだい解決の方法と、政治が直面するもんだい状況との間に存存する空隙がどのような理由によって生じたのか、ということてありましょう。すなわち、この空隙は、政治の方法としての民主主義の原理・原則の論理的帰結として現前しているのか、それともむしろ原理・原則と、それを基本的枠組として運営される政治実践の場における、諸政治党派の理念ー実践との間に乖離が存在することこそ、こんにちの政治状況の原因なのかということが、判断されなければなりません。


 以上のようなもんだい意識を前提として、わが国の諸政治党派を観察するとき、わたくしたちは奇妙な事実に気づかざるを得ません。こんにち、議会に甘ける諸党派は、いずれをとりましても、民主主義を否定したり、あるいはその原理・原則の一部に公然と疑義を表明している党派はありすせん。全党派一致して民主主義の体現者、(しかも、各党派それぞれ自党こそ唯一の、と形容して)であると主張しております。しかしながら、一体いずれの党派が党の立党の精神・理念・理論体系と民主主義の関係を論理的に明らかにしているでしょうか。さらには現行憲法に対する諸党派の言動においてもこのことは如実であります。改憲、護憲とそれぞれ党派により主張は相対立しておりますが、これら憲法に関する政策を云々
する諸党派において、一体いずれの党派が、党の理論体系と現行憲法の理念との論理的な関係を明らかにしているでしょうか。


 いうまでもなく、政党の存在は党の理論体系が規定するものであって、憲法あるいは時々の政策によって規定されるものでありません。しかしながら如何なる理論体系を軸とする政党であれ、およそ政党として国政に参画せんとするならば、国政の基本的枠組みとしての憲法と自党の理論体系との論理的な関係は自覚しておかねぱならず、さらに公党としての性格上、一般に明らかにしておく義務があると思われます。しかしながら、ただの一党としてこの当然なすべき作業を行っていない、これがわが国の自称民主主義の体現者であるところの既存の諸党派のすがたであります。


 ここであえて断定すれば、わたくしどもは、こんにち既存の諸党派は、自前の民主主義論も現行憲法論も備えていない、というのが事実であると考えております。さらに付言するならば、改憲派・護憲派を問わず、現在的には、これらの作業にかえて現行憲法の条文の引用をもって満足しているのであります。一例をあげて検討すれば、「言論の自由」ということです。現行憲法はその二十一条において言論の自由をうたっております。しかしながら、憲法は、当然のことながら、その根拠については何も述べておりません。何故に言論の自由を保障するのか、というもんだいは、すなわち、諸党派の理論体系によって説明されなけれぱなりません。この説明を怠っている党派の主張する「言論の自由」については民主主義は方便である、という批判を免がれ得ないとわたくしどもは考えます。


 わが国の議会政治は、保守主義を標傍する自由民主党と、目的政党すなわち、世界観・倫理観にもとづいて描いた理想社会の実現をめざす党派が存在し競合するというかたちで展開されてきました。憲法のもとでの議会制民主主義という枠組みのなかでこれら諸党派は、それぞれが自党こそは真に民主的であり、民主主義を保障する党であり、真に国民の利益を実現していく党であると主張しております。しかしながらこれら諸党派は、民主主義のもとにおいては、意見の対立ということをどのように把握するのか、意見の対立という状況において採用されるべき政策はどのような方法によってなのか、といういわば民主主義の全くの初歩的ルールさえ確立することはおろか、党独自の主張さえ持っていない、さらには持つ必要さえ自覚していないのであります。
 このような諸党派が今日まで曲りなりにも国政を運営し得てきたのは、第一に現行憲法の定着ということ、第二の理由としては、とりわけ昭和三十年以来遂行されてきた経済の高度成長であります。高度成長に対する国民的合意があり、諸党派もこのすう勢をけん引し、後押しする、という状況が、諸党派の民主主義政党としての基本的欠陥が暴露することを防止していたとわたくしどもは判断しております。


 こんにちにいたって、これら諸党派の延命策は、「福祉国家」てあります。わたくしどもは、「福祉国家」もまた、「高度成長」と同じ轍を踏むであろうと予測します。将来にわたっての財源の保障を、机上ブランとしてさえ提出し得ない次元での「福祉国家」とは、まさに現在解決すぺきもんだいをますます解決困難なもんだいにして次代の国民に背負せるものであります。まさにわが政党改冶の状況は、将来の環境変化を予測し、備えるという重要な任務を放棄し、ただ今日、明日を如何に延命するか、という党利党略を越えることをきわめて些少であるといわねぱなりません。


 わたくしどもは、この政治の現状の主要な一因は、自由民主党が保守主主義政党として当然具備すべき要件を欠落させている、という点にあると判断しております。詳細は次節において述ぺますが、自由民主党は、民主主義論も、保守主義の理論も備えておらず、改憲を主張しつゝ、実はその民主主義・保守主義とは基本的に現行憲法の諸条文そのまゝであり、しかもそれらに対し何の理論的コメントさえ加え得ない、というところであります。
 目的政党はひとまずおくとして、いやしくも保守政党を自称し、現行社会体制を存続させることを党是とする自由民主党が、自前の民主主義論・保守主義論を有していない、この保守政党としておよそ他と比肩すぺきもない重大な要件の欠落こそ、わが国の政治状況を今日なくあらしめた主因であります。

 

 論述してきたわたくしどもの判断が、一面的ではあれ、現在の政治状況の原因分析として的を外していないとすれぱ、こんにちの政治の方法をめぐる課題は、議会制民主主義の原理・原則と実践の乖離を如何にして克服するか、ということであります。そしてとりわけ保守主義を標傍するわたくしどものもんだい意識としては、理論なき保守派の現状打開の第一歩としての保守主義および民主主義の理論構築であり、その理論を基準とした既存保守政党の改造の可能性ということでありましょう。しかしながらわたくしどもは理由は後述しますが、もはや自由民主党が改造され、政治理論を軸とする国民政党へと改造される可能性はほとんどないと判断してまいります。

 

 わたくしどもは、以上のような判断をもって、自ら立って国民政党を創建することを決意しました。拠るものは、ただ自らの努力のみという位置から、多くの同憂・同志の人々があることへの確信をもって、およそわが国においては前人未踏の域に属する企ての第一歩を踏み出すことを決意したのであります。


 本冊子は、現在の政治を憂い、いかなる性格の政党が、現在ー将来において生起するてあろうさまざまのもんだいの解決という任務を果たし得るのか、というもんだいに関心を有するすべての人々に対するひとつの提起であります。以下においてわたくしどもは、民主主義および保守主義に関するわたくしどもの見解を明らかにし、独自の理論的立場から導き出される創建を目指す新たな国民政党の素描を試みたいと考えます。さらにそののちに、わたくしどもの理論的祝点からする自由民主党および新自由クラブの批判的検討を行いたいと思います。


 さまざまの経緯ののちに本冊子を手にされるめぐり合せとなった各位に対し、わたくしどもの意のあるところを充分かつ批判的に検討されんことを切望するものであります。


2、民主主義について


 わが国においては、保守主義者を自認する相手に対して保守主義の理論について語ろうと試みる人は、まず、なぜ理論をもんだいとすることが必要なのか、という点に関して、あまり興味すら示さぬ相手に、長々と説明することから始めなければならない、というのが大方の傾向であります。わが国の保守主義者とりわけ政治家の大部分は、政治理論を軽視し、警告に対しては空論であると一蹴してきました。しかしながらおよそ人間の目的意識的活動がすべてそうであるように、政治もまた理論の不可欠性を免がれることはできません。理論を軽視する論者自身、「実践は理論に優先する」、「理論は考慮する必要はない」という立派な理論的立場を選択して事を処しているともいえますし、さらに重要なことは、「理論は軽視してもよい」とする立場も、理論を重視する立場同様、実際の活動に先行して、さまざまの情報を取捨選択し、ある仮説をたてることを行わないかぎり、何事もなし得ないことは自明であります。この作業、すなわち仮説の設定にいたるまでの全作業を貫く基準こそが理論であり、わたくしたちは情報の取捨選択をたとえ理論を意識せずに行い得たにせよ、反省過程においては、選択の基準としてのさまざまの知識や信念が存在することを否定することはできません。この仮説構築にかける基準を、仮説構築の作業に先行して、理論として整合的に把握することの重要性は、人間の目的意識的活動は試行錯誤的方法によって行われること、目的達成に失敗した場合、失敗に学ぶ、すなわち、新たな試行錯誤に向けての仮説の構築、という段階において基準の果す役割に注目すれば明らかであります。政治実践にかいて、とりわけ保守政党に限ってのべれば、保守政党は、現行社会制度の全面的あるいは急進的な改変という方法を選択しない、部分的、漸進的改革の途を採用する以上、特に自己の政策認定を基礎づける理論の重要性が強調されねぱなりません。保守政党の政策は、状況の変化に機敏かつ的確に対応していくという性格をもつものですが、この政策の変化の背後に保守主義の理論が前提され、理論を基準として当該政策の「保守」性が主張し得てはじめて保守政党は、自己が「保守」であることを標傍しうるのであり、基準としての理論なき保守政党は、現在の政策においてはともかく、将来にわたって「保守」てありつづけることを主張する根拠を有しないのみか、無自覚のまゝ急進主義へと転回する可能性をも持っているといわねぱなりません。さらにこんにちの如く、政策の選択肢が少なく、目的政党諸派も一斉に漸進的政策を堤起しているとき、政策決定過程における方法論的論議の必然性、および国民への支持を訴えるに際しての政策以前の方法論的立場の主張の必要性等を考え合せるとき、一層明らかであります。さらに、保守政党は、目的政党と異って、党の支持層を特定しません。党は国民諸階層、諸グルーブのなかから特定のグルーブをもって他のグルーブに優先させる、という立場をとらないのであります。したがって、党はあるいは互いに利害の対立しているかも知れない社会的グルーブの両者に同時に党への支持をよびかけるわけですが、それは第一に政策の呈示によってではなく、利害対立を解決する方法を明示した党の理論によってであると、わたくしどもは考えます。
 このように保守政党における理論の重要性を前提として、わたくしどもの採用する、民主主義・保守主義の理論について政治および既存政党の状況と照合しつゝのべていきたいと思います。

 


 過去においてはともかく、普通選挙にもとづく議会制が、世界的に政治制度のすう勢となった現在において、民主主義は、一体何をもって他の政治制度と自らを区別するのでしょうか。まぎれもなく、特定のグルーブによる独裁のもとでの議会制が存在しており、そしてわたくしどもの理解するところでは、これらの議会制とわが国の議会制、すなわち民主主義にもとづく議会制との間には、中学生にでも具体的に列挙できるような多くの差異が存在します。これらの差異は如何なる根拠にもとづいて存在するのでしょうか。民主主義は、議会制一般のなかでどのような点で他との差異、主観的には優位性を主張するのでしょうか。およそこのもんだいに対して、解答し得ない自称民主主義党派は、国民に対して自党が民主主義政党である、という主張をもとに信頼を訴え、期待する資格がないといわねぱならないことは、論理的に明らかであります。
 おりしも、わが議会になける諸党派は、自党こそ唯一、民主主義の体現者であり、かつ擁護者であると主張しております。しかしながらどの党派をとり上げても、前にのぺたもんだいへの解答を導き出し得るような民主主義理論を備えているものはありません。それどころか、わが国の政治制度と自党の理論的立場を方法論的に関連づけて論じたことすらない、というのがわが自称民主主義諸党派の現状であります。
 このおよそ一国の政治にかかわらんとする政党であれば、論理的に考えてまず不可避であろうもんだいをいかなる理由からか、全く無視しているのがわが議会において活動中の既存諸党派の基本的性格であります。
 いずれの党派をみましても、民主主義と自らが信ずるスローガンをかかげ、スローガンの説明を要求されると別のスローガンをもって答える、あるいは憲法のあれこれの条文の引用をもって事足れりとする、さらには、何らかの政策を「真に民主的な」と銘うって提起することをもって、何かしら自党が民主主義を党是とする政党であることを立証した、あるいは現行政治制度のもとでの自党の位置を論理的に明らかにしたかのようにふるまう党派ばかりてあります。このような、「真の民主主義」諸党派の行ういわば民主主義のバーゲン・セールのような政治の現場における言動をみるとき、民主主義そのものに対する幻滅、直観的な破産宣告がなされることも理由なしとはいいがたいものがあります。
 しかしながら、何回も強調しておきますが、これら、民主主義を自称しつゝ、民主主義論も、現行政治制度における自党の位置づけもいまだ一度として試みたことすらない諸党派が政治運営を占有していること。この点にこそ現在の政治の課題、解決すべき社会的もんだいの質と解決方法の乖離という重大かつ緊急のもんだいの主因があるとわたくしどもは判断し、主張するものであります。

 

 主権在氏、政治の主体は国民である。ということが民主主義の原理・原則であるとすれば、民主主義の理論構築のアプローチは、この「国民」について考察することから開始するのが妥当であると考えます。「国民」、この一語のうちに、日本国籍を有するすべての個人が集合されております。すなわち、経験、性格、能力、社会的位置、信条等いずれをとっても、さまざまの具体的な政策の策定に先立って、統一することの不可能な差典を有する諸個人の総称が「国民」であります。したがって、わたくしどもは、いかなる政策といえども、「国民のため」、すなわち全国民の利益のため、と主張することは不可能であると考えます。このわたくしどもの判断が正しいとすれば、ここにおいて、「国民のために」と銘うってあれこれの政策提起を行う諸党派の非論理性が明白となります。かれら諸党派流の「国民のため」とは、「当の政策遂行によって利益を享ける国民のため」ということにほかならないわけてあります。さらにこの「国民のため」の政策にはいまひとつ「民主的」というレッテルが貼られております。すなわち、ある政策の遂行によって、国民の一部あるいは、大部分が利益を享ければ、その政策は全国民のための政策であり、民主的な政策である。というのが諸党派流の「国民」観であり、「民主主義」観であります。しかしながら、この「国民」観、「民主主義」観は、論理的根拠を伴なって提出されたことがないために、わたくしたちはこれら諸党派の「国民」観、「民主主義」観を合理的に検討することができません。
 したがって、わたくしたち国民のこれら諸党派に対する態度は、合理的な検討にもとづいて決定されるのではなく、非合理的なさまざまの動機によって、決定されている、といわねばなりません。すなわち、諸党派流の民主主義とは、当該党派が、「国民のため」、「民主的」と信じて堤起する政策の遂行によって利益を期待し得る国民の部分および、党の支持者にとってのみ、容認され得るものでしかないといわねぱなりません。わが国の政治は、まさこのような「民主主義」諸党派によって運営されており、その恣意的な「民主主義」・「国民」観にもとづく言動への請求書が、かれら諸党派流の政党の存在さえも保障する、わが国の政治制度にむけて不当にもつきつけられているといわねぱなりません。


 保守主義を標傍するふたつの党派を除くわが国の政党は、目的政党すなわち、現行社会体制を抜本的に廃止し、自らが信奉する世界観あるいは倫理観にもとづいて描きだした社会制度のブランをもって置き換えることを目的とする政党であります。端的にいって、これらの党派は字義どおり、「国民のため」の党であるとは、認め難いものがあります。これらの党は第一義的には、これらの党かかゝげる実現されるべき社会制度を支持する国民のための党であり、けして全国民のために政治運営を行う党とは認められません。勿論、これらの党からは、わが党の目的とする社会の実現は、国民の、場合によっては、全人類の利益となるものである、との反論がなされるでありましょう。すなわち、目的政党は、国民個々にとって何が利益であるか、ということを、当の本人よりも良く知っていると主張するわけであります。しかしながらこの主張は、客観的な検討を許さない性格のものであります。目的政党の目的の正しさは、当の目的を導き出す、特定の世界観・倫理観を前提として社会を分析する場合にのみ、その正しさが証せられる、という構造をもっております。わたくしたちは、ある世界観、ある倫理観が正しいか、誤まっているかを合理的に判断する基準をもっておりません。また、目的政党白身、自己の世界観あるいは倫理観から独立して、その目的の「普遍性」あるいは「歴史の法則」の具現であることを論証することはできません。したがって、目的政党に対する国民の態度は、目的を非合理的に受け入れるか、あるいは、政治の方法のレベルにおいて目的政党を拒否するかのいずれかてあります。
 党の目的に帰依する国民にとっては当然党は全国民の党であり、そして党が民主主義と唱えればまた民主主義の党として存在するのでしょうが、帰依しない国民にとっては、身元不明の目的を「真理」「善」として強要する党として存在することになります。もちろん、党にしてみれば、国民のための真の利益の具現こそが目的であります。強要してなんのはぱかるところがありましょうか。強要は、目的政党にとって神聖な義務であります。また、目的政党にとって、反対派の批判は、無知な輩のたわ言か、きたるべき至福の世界への参加をあらかじめ拒否されているグルーブの泣き言ということにもなりましょう。


 目的政党にとって、政治体制は、基本的にその目的達成にもっとも効率的な制度を採用する、というのが合理的であります。何も民主主義であるとか、議会主義であるとかこだわる必要はないのであります。実現すべき社会制度、あるいはもんだい解決の基準は、自党の世界観あるいは倫理観であるか、あるいはそれらから導出されるわけですから、党外のさまざまの視点から提出される反対意見の処理にあたっては、たとえ聴取が行われたにせよ、政治の意思決定に影響を及ぼすようなことがあっては、背理となりましょう。したがって、わたくしどもは、目的政党は、国民の特定の部分の党であり、たとえ党が国民の支持の絶対多数を得たにせよ、国民の党とは称し得ないと判断します。目的政党においてこのことを否定するならば、まず自党の民主主義論を提起することからはじめねぱなりません。民主主義論の展開を前提としない反論は、わたくしどもの主張をくつがえすことはできません。


 わたくしどもは、現行社会制度下におけるもんだいの発生をもって、自党の目的の正しさの論拠としかねない目的政党に対して、現在の政治状況の責任を負わせるつもりはありません。かれらにとって、政治の混迷もまた「わが党の目的の正しさ」を証する一例にすぎないのでしょうから。しかしながら、保守を標傍する自由民主党はこの限りではありません。


 保守主義は、現行社会体制において生起するさまざまのもんだいを漸進かつ部分的なアプローチによって解決せんとする立場であり、また現行社会体制の存続を前提として将来にかいて生起するもんだいを予測し、それらへの対応を準備することを任務とします。およそ、世界観・倫理観のいかんを間わず、こんにち生きている個々人はすべて何らかの解決すぺきもんだいに直面しており、それらのもんだいの多くはまた現行社会体制にかいて解決し得る、解決すぺきもんだいであります。わたくしどもは、個人が直面するもんだいにおいて、社会制度が変化しないかぎり解決不可能なもんだいは想定し得ないと主張しますが、この主張は除外しても、たとえ目的政党の最も戦闘的、先進的な党員である国民といえども、現行社会体制にかける利害をもっているという点は、自明であろうと思われます。したがって現行社会体制におけるもんだい解決を任務とする保守政党は、これら、目的政党の党員である国民を含む、現行社会体制におけるすぺての国民に対して責任を負う存在であるといわねばなりません。自由民主党が、保守主義を標傍しつゝ、果たしてよくこの任を遂行してきたか否かの検討は次章にまつとして、ここでは、いまのぺたような「国民」の多様性ということを前提とした政党のあり方を追究したいと思います。

 すでに明らかになったように、民主主義は、あれこれの政策に「民主」マークのレッテルを貼って提出することを意味するものではありません。民主主義を他の政治体制から分つもの、それは、主権在民、「人民の、人民による、人民のため」の政治を行う、その方法によってであります。国民の圧倒的部分が支持する政策を遂行することをもって一義的に民主主義とするのではなく、遂行すべき政策の決定過程のルールにおいて民主主義は自他をはっきりと弁別するのであります。このルールは、言論の自由を前提とした論議をつくすことであります。(わたくしどもは、多数決は、民主主義よりもむしろ議会主義のルールであると考えます。)では、民主主義はどのような理由から言論の自由を前提とした議論をもってもんだい解決の方法として採用するのでしょうか。もちろんこの民主主義の基本原理の根拠づけはさまざまの視点から可能でありましょうが、以下はわたくしどもの採用する根拠であります。


 歴史的な必然あるいは真理の具現へむけての過度期として現在を把え、過度期における力関係を考慮した戦術として、あるいは、国民の特定グルーブの利益追求を優先させることの論拠として民主主義を唱える、という目的政党流の立場と明確に異なって、わたくしどもは、民主主義とは、もんだい解決の方法であり、民主主義のもとでは、先験的に他者の意見に対して優位を主張しうる立場、あるいは理論は存在しないと主張します。この主張の根拠は詳細に展開せねぱなりませんが、ここでは後論に必要なかぎりにとどめたいと思います。根拠の第一は、何人といえども自己の主張の根拠を、「真理」に求めることは不可能である、ということです。もちろん主観的には、いかなる種類の「真理」も存在し得るわけてすが、この真理は、客観的な批判の対象とすることの不可能な主張であります。さきにも述べたように、真理の判定基準は存在しないのであります。


 第二の根拠は、わたくしたちは、ものごとの全体像を把握することが不可能である、という認識論上の立場であります。このことは、当代の科学の到達水準、当事者の認識能力の程度といった限界ではなく、論理的な水準での主張であります。わたくしたちは、「これがもんだいとなっていることがらの全体像である」と主張することはできません。わたくしたちは、ことがらの全体をあらゆる視角から同時に把握し、表現するという能力をもっておりません。


 認識の限定性ということは、当然予測の不完全性ということを帰結します。今日の時点において歴史のすう勢と見えたものが明日もまた依然としてそうであるということは論証し得ません。歴史のすう勢を把握するにあたって、当面、他への影響が小さく、捨象し得ると考えられたことがらが、時間の経過とともに、予測外の重要な位置を占めるに至り、ついにははじめに歴史のすう勢と
考えられた傾向を別のものによって換えてしまうということは、充分あり得ることです。


 よく言われることに、ことがらを真に把握するためには、先入感をすて、いわば白紙の状態において観察せよということがあります。この提言を実行することは、不可能であります。社会的もんだいの把握における意見の多様性という論旨に即してのべてみます。

 まず、あることがらが解決さるぺきもんだいとして認識される、ということは、もんだいの認識に先行して、一定の個有の立場が存在している、当のもんだいをもんだいとして認識し、その解決を希望する、という立場が認識に先行している、ということであります。ある立場に立ってはじめて、もんだいがもんだいとして認識されるわけです。(ただし、この立場とは、認識者がもつ、知識、信条等から構成される基準(理論)であって、唯物論者流の没個性的な社会的位置のことでありません。)
 先入感、つまり認識の基準を捨てて、白紙の状態て周囲を見わたしても、もんだいはおろか、何ひとつ認識することはできません。この認識における基準の先行ということに強く留意しなければならないとわたくしどもは主張します。


 もちろん、もんだい解決に際しては、わたくしたちは、固有の基準から出発しながら、できる限り、もんだいを多角的、多重的に把握し、検討しようと努力します。検討の結呆は、あるいは最初に認識を導いた基準のレベルへフィード・パックされ、基準の枠組みが変更される可能性もあります。しかしながら、この基準の変更も、「真」の基準への到達を意味するわけではなく、したがって、わたくしたちは、もんだい認識の提示にあたっては、基準を可能なかぎり明示し、「この基準を前提とすれば、もんだいはこのように把握される」というかたちでしか主張することはできません。そして、もんだい認識をこのようなかたちで提示することこそ、もんだい解決の重要な第一歩であることは、のちに論じたいと思います。
 以上においてのべたことから導き出される結論は、誰にせよ、自己の認識を唯一の正しい、あるべき認識である、と主張することは不可能であるということです。このことから、認識の、もんだい把握の多様性すなわち、社会的もんだいをめぐる社会意見の多様性ということが、当然のこととして認められるわけてす。この立場において、言論の自由ということが、単なる宣伝、党利党略、あるいは憲法条文の復唱などと全く異なった、論理的根拠をもった主張として、なされるのであります。
 主張の提起は、合理的なかたちで行わなければならない、ということを前提として、この立場は、自己の主張と異った主張の存在をもんだい解決に不可欠のものとして把握します。この立場が目的とするのは、自己の認識の正当性を証明することではなく、あくまでももんだいの解決ということですから、もんだい把握の段階において、自己と異った立場、基準を前提としてなされたもんだい把握を知る、ということは、自己の気づかなかったもんだいの側面、基準の欠点等を発見する機会を得る、ということです。このことは、もんだい解決という当初の目的達成に大きく寄与するものです。したがって、好むと好まざるとに関わらず、異った主張に積極的に耳をかたむける、ということは、およそ真剣にもんだい解決にとり組む時、不可欠の作業といわねぱなりません。
 解決すべき社会もんだいをめぐる意見の多様な存在を承認するとすれば、まず作成されねばならないルールは、複数の意見が存在するとき、採用すべき解決策を決定する方法についてであります。

 

 民主主義の意思決定ルールは、多数決である、という通説が当を得ていないことは、すでに明らかであります。通説に従えば、議会制さえ採用していれば、全体主義も、いわゆる人民民主主義もすべて民主主義ということになりましょう。 

 

 民主主義の意思決定ルールを検討するにあたって、原則とすべきことは、民主主義における意志決定は、多様な意見のなかから、より合理的な解決策を作り上げていく、という認識論に規定された、意志決定の方法であります。すべての意見は、修正されるべき部分を含んでいるであろう、ということを認めることは、およそ民主主義者にとって、最も基本的な信条であろうとわたしどもは、考えます。

 社会的もんだいの解決策の決定にあたっては、当事者全員の解決策に対する承認を得る、ということが最ものぞましい、という合理的な命題をふまえて、わたくしどもが主張するルールについては、機関誌上において詳細にのぺることとして、ここでは、解決策の決定にあたっては、もんだい把握のレベルにおける合意をかち取ることこそ最も困難なもんだいであり、民主主義における意志決定は、もんだい把握と、採用すべき方策という二段階においてなされる必要がある、ということを指摘しておくにとどめたいと思います。

 

 以上、民主主義を、特に言論の自由という原則にしぼって論じましたが、付言すれば、言論の自由を、認識論的に根拠づけているか否かということこそ、民主主義政党を他から分つ試金石であるとわたくしどもは考えます。


3、保守主義について

 「2」においてのべたことを前提としたとき、採用されるべき、社会もんだいの解決のための基本的枠組み、方法について検討していきたいと思います。


 わたくしどもは、ことがらを認識するとき、個有の立場から、そのことがらのもんだいとすぺき側面を抽出的に把握します。もんだい意識に照合して、関連性が乏しいと判断される側面あるいは部分は、捨象されるわけです。(このことを否定すると、わたくしたちはもはや、もんだいを表現することはおろか、把握することすら不可能です。)しかしながら、「一」において「歴央のすう勢」についてのべたことをくりかえすことになりますが、現在、関連性が乏しいという判断によって捨象された側面、部分が、事態の進展に相応して変化し、ことがらの死命を制するに至る、という可能性は、充分考えられます。あるいは、採用された解決策の実行によって、社会の予期しなかった別の側面に、否定的な結呆を及ぼす可能性をまた充分考えられます。したがって、もんだい解決の全過程を通じて、その解決策が依然として、もんだい解決策たり得ているか否かが、もんだいの変化の把握によって点検されねぱならないということと、解決策の実行による、社会の別の側面への波及効果の注視ということが、可能な枠組みが必要とされます。
 解決策が、大規模、急進的であるほど、もんだい解決過程を制御することは困難であり、場合によっては、全く制御不可能な事態を発生させ、社会を破壊する可能性すら存在します。

 

 これらに留意するとき、もんだい解決の枠組みは、端的に保守主義の立場すなわち、もんだいの解決にあたっては、現行制度、伝統を尊重しつゝ、部分的・漸進的なアプローチを行うという立場が採用されるのが合理的であるとわたくしどもは判断します。
 この保守主義は、もんだい解決の枠組みとして採用されるものであり、復古、旧守とは全く異なる立場であります。すでに明らかなように、わたくしどもの採用する保守主義とは、もんだい解決すなわち現状の改良、改革にあたって採用すべき解決策の基本的な枠組みであり、別に、革新ということと対立するものではありません。ただし、既存の「革新」諸党はすべて基本的な現行制度の改変を目的としてわり、この点において、わたくしどもの保守主義と明確に対立するものであります。

 

 さらに、復古主義すなわち、歴史上の特定の時代の制度への全面的な復帰を主張する立場にも若干ふれておきたいと思います。
 再三のぺてきましたように、わたくしどもの考えでは、わたくしたちは、ある時代の社会制度を全体として把握することは不可能であります。わたくしどもの判断では、復古主義はある基準にもとづいて当該時代の社会制度を恣意的に取捨選択し、当該の社会と一致しない、非歴史的な、新しい社会像を描き、その実現を目的とする立場であります。すなわち、復古主義とは、恣意的な基準にもとづいて、一定の時代の社会制度の取捨選択を行って、あるべき社会を想定し、社会総体をその社会像へ一致させようとする、全体主義・急進主義であって、保守主義とは、あい入れない立場であるといわねばなりません。                           

 経験的には、復古主義は、「伝統の尊重」、「伝統へ還れ」というスローガンを叫びます。しかしながら、復古主義流の伝統の尊重とは、さまざまの伝統の相互の連関を無視して、恣意的に抽出した伝統のみを美化し、「尊重」する立場であり、その実践の結果は、多くの伝統の破壊、ひいてはそれらの伝統との連関において存続する当の復古主義が称揚する個別の伝統そのものさえ、変化、破壊させる可能性があります。すなわち、復古主義の主張する「伝統の尊重」は、伝統の予期しない破壊の可能性を内包しており、さらにその全体主義、急進主義的方法は、その行動の結呆として制御不能な社会状態、解決不可能な社会もんだいの発生の可能性を多分に持っております。共産主義等の急進主義、全体主義同様復古主義は、このことを自覚していないといわねぱなりません。


 わたくしどもの主張する伝統の尊重とは、伝統の取り扱いを慎重に行う、ということであります。わたくしたちは伝統の発生、存続の理由、現在にかける機能などを全体として認識することが不可能であることから、伝統の急激な改廃が、引き金となって、生起するかも知れない制御不能な社会状態ということの可能性を考慮しているものです。この立場は必要に応じて伝統の批判的な検討を行う、ということと矛盾するものではありません。


 最後に次のことに留意していただきたいと思います。急進主義は、ある社会事象に対する価値判断から短絡的に総体としての社会を評価し、あるべき社会を想定し、その実現を目的とするに至る、という「論理」的な過程を有しており、このため当初は解決すぺきもんだいとして把握されていたことからが、遂には現行社会の全体が変革されねばならない理由のひとつ、目的聖化のための説得材科とされかねない、ということであります。
 保守主義の立場は全く異なっております。保守主義には、画一的な価値基準は存在せず、さまざまの基準によって発見されたもんだいは、解決過程において基準へフィード・バックされつつ、あくまでも個別のもんだいとして解決されて行くのであって、社会総体の評価を必要としません。


4、国民政党の素描

 民主主義・保守主義をかかげる国民政党は、すてにのぺたように、社会制度の全面的な改変を目的として結成される政治党派とは明確にことなって、あらゆる階層の信条、利害、経験、生活等いずれをとっても千差万別の諸個人によって結成される党であります。したがって国民政党の結成の基軸は、特定の信条や、利害ではあり得ないことは明白であります。
 それでは国民政党は、何を基軸として結成されるのでしょうか。わたくしどもの志向に限ってのぺていきたいと思います。


 国民政党のもっとも基本的な軸は、さまざまの水準におけるもんだい解決へむけての意志決定のルールであり、そのルールを根拠づける認識ー方法論であります。このもんだいについてはすてに先述しましたので、ここでは、わたくしどものめざす国民政党の認識ー方法論と世界観政党の認識一方法論との差異を明らかにしておきたいと思います。周知のように世界観政党の理論体系は、認識論を基礎として構築されています。
 その認識論は、当の世界観政党にとって、世界観の「真」性ないし「科学」性を証するものであります。論理的な検討を加えれば明らかとなることですが、世界観政党の主張とは全くことなって、いかなる認識論を採用したにせよ、認識論から論理的作業のみによって、世界観を構成することは不可能であり、また、世界観から目的が論理的に導出されるわけでもありません。しかしながら、世界観政党は、認識論一世界観一目的が論理必然的な関係のなかにあると錯誤しているために、その理論体系が閉鎖的な円環構造となっていることに気づいておりません。


 したがって、理論的な批判に対しては、目的ー世界観一認識論と遡及して答えるかにみえて、最終的には、認識論の防衛に際して、当の認識論から導出されたはずの世界観によっておこなうという転倒を演じ、あるいは、認識論を体得しないかぎり(!)理論体系の「真」性ないし「科学」性は把握し得ないと居直るわけです。この閉鎖的円環構造にとどまっているかぎり、世界観政党の理論体系は、他者の批判に対して先験的に、完壁に防護されております。実はこの超批判的な性格こそ世界観政党の免がれ得ない性格としての閉鎖性、独善性の根拠であり、このことは、世界観政党が、理論の次元において、失敗から学ぶ、ということを拒否し、ひいては、当の世界観政党の志向する目的と全く相対立する事態を生起する可能性をも論理的な次元においてすでにもっている、ということを明らかにしております。


 世界観政党の閉鎖的な円環をなす理論体系内の認識論とことなって、国民政党の認識一方法論は、特定の世界観と論理必然的に結びつくものではありません。また、特定の世界観と対立するものでもありません。(論理的には、「真」の認識を得るための方法として主張される認識論とのみ対立するのですが、世界観政党の理論体系は、この種の認識論と不可分であるために、体系そのものと、わたくしどもの認識論は対立するわけです。)
 したがって、わたくしどもの採用する認識一方法論は、いかなる世界観とも共存し、世界観は、この認識一方法論を自己の他への優位性の根拠とすることができません。この意味においてわたくしどもの認識一方法論は、開かれた理論であると主張することができると思います。この認識一方法論が開放されているということはきわめて重要であります。


 開かれた党、開かれた政治ということが云々され、党内の論議をひろく国民の前に明らかにすることが要求されております。公党として当然行うべき党内論議の公開を行わないということは、たしかに批判し、公開を要求すぺきものであります。しかしながら、党内論議が公開されることをもって当該政党が開かれた党であるとするかのような見解はわたくしどもは賛成できません。このことは、世界観政党を例にして検討してみれば明らかであります。世界観政党がその理論体系の論理的性格から、外部の批判を拒否する以上、世界観政党とわたしたちの関係は、敵か味方か、という二分法を超えることができず、党内論議が公開されている、いないにかかわらず、閉鎖的な関係であります。世界観政党が、自己の世界観に対する批判を許さない、ということは、党がその現実の言動において、いかに開放的なポーズを採用しようとも、その基本的な閉鎖性を変化させるものではありません。
 たとえば、次のような状況を想定してみれば、このことは明かであります。世界観政党が国家権力を十分に把握し、国民の大多数は同党を支持している。党内論議はかれらが主張する「民主主義」に即しておこなわれ、かつその一部始終は国民に開放されている、という状況にあるとしましょう。この状況は、はたして当の世界観を信奉しない国民少数派にとっても「開かれている」と判断できるのでしょうか? もし、「開かれている」と主張するとすれば、この「開かれている」ということは、少数派にとっていかなる意味をもつものなのでしょうか。
 わたくしどもの採用する認識ー方法論は、開かれた理論であります。しかしながら、このことをもって国民政党が開かれた党派であると、主張することはできません。
 ただし、この逆は主張しうることは先述した通りです。また認識ー方法論が開かれた性質をもつということは、この認識ー方法論を基礎にしながらなおかつ理論と無関係に何らかの権威をかかげることによって、閉鎖的な党派が存在する可能性をもっています。
 すなわち、開かれた認識ー方法論は、国民政党の必須条件であり、十分条件ではありません。

 

 第二の軸は、認識ー方法論をふまえた意志決定ルールとしての民主主義であります。この民社主義は、理論としての民主主義であって、現行法体系と無関係にたてられております。その内容については、第二章においてのべました。ここでは、議会制民主主義における多数決原理について若干、ふれておきたいと思います。わたくしどもの主張では、議会制民主主義は、少数意見の位置づけ、処置によって他の議会制ときわめてことなっています。認識一方法論から明らかなように、多数意見がたとえ相対的にせよ正しい意見であるとは主張できず、また多数意見の採用が即、「最大多数の幸福」を約束するものでありません。わたくしどもは、多数決を、実践における効率ということを考慮して採用します。この立場は、ただちに小数意見の取り扱い方を示唆します。
 採用されるもんだい解決策は、究極的に関係者の相対的多数の協力が予測される、という見地からのみ、採用されるのでありますから、解決に失敗する可能性は常に免がれません。したがって実践の結節点にかける総括は、採用された解決策のみならず、少数意見を基準としても行う必要があり、もんだい解決という目的にとって、実践に採用されるか否かを間わず、少数意見は全過程を通して、活用されるわけです。


 第三の軸は、保守主義であります。この三つの軸によって、国民政党は、その結集の軸である理論において、国民政党であることを主張し得るのであります。付言するまでもなく、党はこの次元において、世界観政党の党員たる国民もふくむすぺての国民に対して開放的な存在であります。現行社会体制内において生起するすべてのもんだいの解決をめぐる意志決定の過程において党が提起する解決策は、党外から提起される解決策に対して何の超越的優位性も主張する根拠をもっておりません。(意思決定過程の分析およびわたくしどもの主張する意志決定の方法は別稿にかいて論じます。)


 以上、のぺました三つの理論が党の結集の基軸であります。すなわち、わたくしどもの志向する国民政党は、党の綱領を基礎づける理論をもって結集軸とします。行動の基準としての綱領は、党の存在を明らかにし、党外の諸勢力、諸個人に党の位置づけを可能とする機能を同時に有します。
 したがって、政治勢力としては、理論を基軸とした党としてではなく、綱領レベルで一致する諸グルーブの連合として、また政策レベルでの一致による共同によって行動することを考えております。綱領および組織論については、今後の課題であります。

 わたくしどもの志向する国民政党の基本的性格についての論述を終るにあたって、次のことを明らかにしておきたいと思います。
 以上によって、意を尽したとは言い難く、表現もまた定まっているとは思いません。不充分な点、不明確な点は、おって刊行する同盟の機関誌において再度検討することによって責任を果たす所存です。御了承下さい。


5、自由民主党の自己改革の可能性について

 ここでのべるのは、本冊子て展開した理論を前提として、自由民主党の自己改造、すなわち国民政党としての再生の可能性についてであって、自由民主党の総体的な評価を云々するものではありません。したがって、検討は主として同党の欠陥とわたくしどもが判断する側面の指摘とその改善の可能性について行います。この点、あらかじめ御留意いただきます。


 自由民主党は、創設以来、同党の「体質」にかかわる批判が強まるたびに、改革、国民政党への脱皮ということをみずからに課し、国民に対して公約してまいりました。しかしながら、党はこの課題に対して何のみるぺき成果も挙げ得ないまま、現在の局面を迎えております。以下、自由民主党のもんだい意識に即したかたちでのぺていきます。

 自由民主党の自己改造の主眼は、いうまでもなく、国民政党への脱皮という点におかれました。そのたの方策として、個人後援会組織の党組織への再編ということが永年の懸案であります。今日にいたるまで、この懸案は、部分的にすら改善されておりません。
 国民政党における理論の重要性が、党として認められていない同党の政治理論は、党の自覚の有無は別として、いわゆる「戦後民主主義」であり、反野党主義であります。党は、多数専制か、一党独裁か、というきわめてもんだいを含む論法で、二者択一を迫ってきました。さらにその多数専制主義のもと安定与党として遂行する政策は、時流追随、野党との勢力関係という当面の戦術的必要によって行われた創設すなわち保守合同以来、のちにのべる党の構造から要求されるぽう大な政治資金の供給グルーブおよび層としての支持グルーブの利害を非合理的に優先させる傾向がありました。そして、それらの政策の批判に対しては多数決て押し切ることを常としてきました。
 戦前の議会政党からその構造と人材を受けついて発足した党は、地方有力者と官僚出身者の党、議員党として存在しながら、国民政党への脱皮の必要性を自覚していたものの、国民政党の結集軸を確立しえず、というよりもそれ以前の段階のもんだいとして、党の政治理論の必要性を認識し得なかったために、現在に至ってもなお戦前型の議員党として存在しています。すなわち、党の下部は議員個々人の後援会組織によって代行されています。 政治家の個人後援会を一概に否定するものではありません。ある政治家の信条、手腕、個性等を評価し、期待する人々が後援会を形成する、ということは至極当然のことであります。しかしながら、この個人後援会をもって党の組織的基盤とし、公党の自他を区別する理念、原則とおきかえることは不可能であります。自由民主党は、理論的次元の不備を放置し、その存立を個人後援会に託したために、本来、諸党派の理論のレベルて行われるべき、競合を効呆的に行い得ない党は、「実績」を主張して保守的傾向の人々を可能なかぎり結集しようとしました。戦後一貫してわが国の国政レベルの選挙は、野党がすべて目的政党である、ということもあって、イデオロギーをめぐるものでありますが、保守単一党という条件から、長期にわたって政権の座を占めてまいりました。しかしながら相次ぐ同党の欠陥の露呈は、警告の意味もふくんて、支持者の離反を促がし、いわゆる「保革伯仲」という現在の状況に至っております。現在、「結党以来の危機」に際会した自由民主党の依拠するものは、相も変らず代議士個々の個人後援会であります。個人後援会は、不当・過大な位置づけ、任務によって、変質しております。保守的傾向の人々を直接に個人後援会に組織することによって党の延命を図る以外に方途をうち出すことのできない自由民主党は、当の代議士について何の知識ももっていない人々をも後援会に組織せねばならず、しかしながら結集をうながす合理的な主張をもっていないために、地縁、血縁、地位、義理、利権等々およそ考えられる限りの手段を駆使して後援会の肥大化を図らねばならない、という構造が改革される兆候は見受けられません。
 個人後援会は、代議士を頂点とし、さまざまの動機で集まった地方有力者たちが中心グルーブを形成し、その下方にさらに個々の地方有力者のもとに、これまたさまざまの動機で集まっているグルーブが位置するという構造をもち、その最底辺は、後援すべき代議士の信条等々についてはおろか、極端には顔さえみたことがない、という人々によって「形成」されています。
 この組織は代議士と内部諸グルーブとの、あるいは内部諸グルーブ間の連関を公開することができません。連関の状況を照合すべき基準は存在せず、代議士が、いかに「さまざまの動機」に応えうるか、が唯一の接着剤である後援会においてひたすら直接的、非合理的利益の約束と「自由主義社会を守るため」という絶叫が、自由民主党の基本戦略であります。
 理論なき、閉鎖的地方党組織として、個人後援会をみた場合、その致命的欠陥は、党中央の欠陥の引きうつしとして、地方における利害調整過程の困難あるいは非合理性、不透明性ということ、また、他党の理論レベルでの批判に堂々と理論をもって応対し得ず、ただ内部において「実績」を確認し合う以外に基盤防衛をなし得ず、したがって、党の支持基盤を維持、拡大することがきわめて困難である、という点にあります。さらにその閉鎖性は、党と無党派の人々、政治に関心をもたない人々とを結ぶ保守党の開放性の原則を否定しています。


 自由民主党が国民政党への脱皮を真剣に志向するならば、党は個人後援会の再編を不可欠の課題とするであろうとわたくしどもは主張します。そしてまさにこのことが党改革の困難なことの理由でもあります。すなわち、自由民主党は保守政党として、今後も「永久政権」であり続けなければなりません。選挙に勝つこと、これは自由民主党にとって至上命令であります。自由民主党は、相互に背反する二つの課題を背負っております。「永久政権」を目ざして、戦略的に党改革を遂行しようとすれば、現在、手にしている政権の存続が危うくなり、戦術的に選挙に勝とうとすれぱ、党改革はそれこそ永久に不可能ということになります。自由民主党内の一部には、党改革を優先させ、野党に政権をわたすことを考慮すべきだ、との意見もあるようですが、党内の多数意見になることはないと思います。わたくしどもも保守派としてこのような安易な主張には、断固反対であります。

 自由民主党は、その基本的欠陥が原因となって噴出するさまざまのもんだいに、その場しのぎの「改革」を約束しつゝ、表面を糊塗しつゝ、「永久政権」を目指して努力する以外に方途はないように見うけられます。すなわち、自由民主党は、基本的に、現在わたくしたちの眼前にあるがままの構造で終始するであろうというのがわたくしどもの結論であります。
 残念なことに、こんにちに至ってもなな自由民主党は、その基本的欠陥を自覚しておりません。改革派と目される党のある有力者は、「山手線を速度で評価する視点から、すし詰めになっている乗客の立場に視点を変えねばならない」と主張しています。この発言は、評価するにやぷさかでありませんが、しかしながら、党の現状はもはや、「何が国民のためになるのか、もう一度考えてみょう」などという独善的な反省によって改良されるものてはありません。この有力者にしたがって「山手線」を例にすれば、速度を重視する意見と、乗心地を優先させることを主張する意見とが対立するとき、「山手線」に関して現実に採用される政策の決定は、いかなるルールのもとにおいて行われるのが、自由と民主主義の自由民主党にとって望ましいのか、ということ、この政策決定ルールを、いわゆる「戦後民主主義」を無批判的に受け入れ、「民主教育」どおりの、民主主義=多数決という同党の伝家の宝刀の破産をふまえて論じることからはじめないかぎり、政権を下りて党改革に努めても国民政党としての再生は不可能であろうとわたくしどもは判断します。


 自由民主党は、目的政党のイデオロギー面での攻撃に同一次元て応対し得ず、陰湿に支持グルーブ内部において「実績」を対置することによってしのいでおりますが、政党の将来は理論によって判断されるべきであり、今日までの「実績」が明日の成功を保障するものでないこと、このことは党にとっても支持者にとっても銘記すぺきことがらでありましょう。


 思えば自由民主党は、結党以来、基本的欠陥の内包にもかかわらず、わが国政の中心的にない手としての責務を負ってまいりました。この事実は否定し得ないものでありますが、現行社会体制を擁護する唯一の政党として同党は、社会体制擁護のために政治資金供給グルーブ、議員後援会の期待に応えねばならず、その現実の実践は、社会体制の擁護という目的が転倒して、支持グルーブの利害の非合理的な優先、という傾向があることもまた事実であり、自由民主党の国政担当の過程はさまざまのもんだいを生起せしめ、党の基本的な欠陥が露呈していく過程でもあった、と思います。


 自由民主党の現状および改革の可能性について、以上のように把握するとすれば、保守主義の理念をかかげ、急進的諸党派と、理論、政策両面にわたって競合し、党独白の行動のかなたに自由民主党にかわって、現行社会体制の存続を前提とした政治の中核をになう展望をきりひらいていく、新たな国民政党の登場が重要かつ緊急の課題として現前するのであります。

 

付記 新自由クラブについて

 自由民主党の内部改革に「絶望」し、脱党した人々を中心として結成された新自由クラブについて若干、感想をのぺておきたいと思います。
 まずことわっておかねぱならないことは、わたくしどもは、同クラブに対して抜き難い偏見をもっている、ということであります。
 わたくしどもは、同クラブに対して次の諸点に関して強い不信の念を持っております。
 第一・自由民主党の危機に際会して党内において何ら積極的に行動することなく、一方的に脱党したこと。第二・同クラブ結成時のリーダー諸氏はかって自由民主党文教部会に属していた。したがって、今日の教育の「混迷」に対して何らかの責任を負うぺきてあるにも関わらず、一切口をぬぐって評論家流の教育批判を行い、かつ、「教育立国」などと提唱していること。
 以上の二点についてのわたくしどもの不信はもとより理論のレベルに関わるものではありすぜん。理論以前のもんだいであり、仮にこのような所業、すなわち自己の果たすべき責任を果たさず、その事が一因となって生起した事態について、第三者然として評言を加える、ということが一般に容認される、ということになれば、相互信頼を基底とする社会的諸関係は根底からくつがえされることはだれの眼にも明らかでありましょう。
 そしてまさに今日、新自由クラブの指導的メンバーである自民党脱党グルーブは、このような批判を免がれ得ない行動をとっているのであります。
 思えば、自民党は党の次代をになうぺき「青年政治家」として、このような倫理感覚をもった諸氏を党内から生んだ、という点において、またしても党の欠陥を露呈しているといわねぱなりません。
 一般に、党内対立は、党の理論、政策を軸として存在します。党の体質にかかわる対立とは、理論次元の対立であり、対立ー脱党の途を選ぶ人々は、党の理論への反対なのか、党の実際の行動が理論と一致していないことをもんだいにしているのか、を明らかにし、さらにそれらをめぐる対立が党内においては解決し得無いことを明らかにする必要があります。ところが自由民主党はその現状を点検する基準となるべき理論をもっていないということから、脱党者も、一体何を基準に自由民主党を批判し、自己を確立していけばよいのか、ということが、自覚されていないとわたくしたちは判断しています。党の理論面での欠陥に気づかぬまま、脱党直前まで沈黙に終始していた脱党派の人々にとって、新党は、綱領、政策、組織よりもまず基本的な政治理論の構築を必要とする、ということが今日に至っても自覚されておりません。
 このことの教訓は、政治理論なき政党はその内部から建設的な批判勢力を生みだすことさえ困難である、ということを証左するものであります。


 新自由クラフの結成の動機は「反自民」であり、それ以上でも以下でもありません。それでは新自由クラフの「反自民」の「反」は一体自民党のどこに向けられているのでしょうか。
 わたくしどもが報道によって知る限りては、「反金権」、「反密室政治」ということが主張されております。 わたくしどもの自民党批判の視点からすれば、この「反自民」はあまりにも皮相的であります。
 わたくしどもには、新自由クラブの「反自民」保守主義はその基本的性格において、自民党ときわめて似通っていると思われます。このことは現実に同クラブ所属議員および議員候補者の経歴、選出過程が自民党の地方名士十高級官僚十タレントという型と相似であることにも明らかであります。すなわち、同クラブは前章て指摘した、自民党の基本的欠陥についての認識が全く欠落しているのであります。何故に保守政党は「金権」、「密室政治」と指摘されるような政治運営を行ってきたのか、行わざるを得なかったのか、というより根本的なもんだいにまで想到していないように判断されます。
 くりかえせぱ、同クラブは、先述した国民政党にかける政治理論の必要性、党独自の理論を装備する、というもっとも初歩的な課題が、課題であることすら自覚していない、といわねぱなりません。

 

 方法にかかわる理論を欠落させている現状において、マスコミから、綱領、組織論、基本政策と次々に「ないものねだり」をされるたびに御都合主義的にそれらを提起しております。さらにはこんにち解決を迫られているさまざまのもんだいについての「抜本的解決策」も数多く提起しております。しかしながら、綱領、組織論等は一体何によって保守主義を標傍し、現行社会体制の基本的構造を擁護していく政党のそれてあることを根拠づけられているでしょうか。この作業の重要性についてはすでにのぺたように明らかでありすます。さらに、「抜本的解決策」を同クラブはどのように実行に移す展望をもっているのか、一向に明らかにしておりません。同クラフが政権の座につくまで待て、というとではないかぎり、少数派であるこんにち、ただいまから、その政策の実施をめざして努力を開始せねぱなりません。その第一歩はどのようにふみだされているでしょうか。政治状況についてのわたくしどもの分析、把握が相当程度肯定されるとするならば、同クラブはまず政策決定過程のルールについて、検討し、他党派との間にルールについての相互確認を行う必要があります。この必要性を公然と認めていない同クラブはその「抜本的解決策」が現行政治の、ルールなき、場当り的取り引きの現場においてどのようにして現実のもんだい解決の施策として採用されることをかちとっていくつもりでしょうか。同クラブの打ち上げ花火のごとき「抜本的解決策」は、果たして具体的な実行へむけての方策をともなっているでしょうか。「保革伯仲」にかける「キャスチング・ボード」を占めることによってでしょうか。「保革伯仲」の将来は予測し得ず、さらに既存の諸政党のいずれが安定政権となったにせよ、かっての自由民主党の議会運営以上の運営を期待することは少くともそれらの党の論理的な検討の結果は、絶対に保障しておりません。

 理論なき保守、新自由クラブは、存続をめざすかぎり、「反自民」を個別政策レベルでうちだす以外、自由民主党と自己との相違を明らかにすることはできません。いわゆる「革新」諸党派顔まけの急進的、議会戦術を矢つぎ早に提唱、駆使することによってのみ、同クラブは、「反・自民」であることを自己確認し、延命するのであります。同クラブの「反自民」が理論的根拠を有しないため、自己の志向とことなって同クラブは、「反自民」ではあり得ても、「反自民」・保守たり得ているか否か、わたくし共はきわめて疑問に思います。
 例をあけて検討してみることにします。


 「いま、求められているのは新しい時代認識だ。
 日本の政治はいま明らかに国民より後を歩いています。
 政治を政治家だけのものにしてしまったからです。
 私たちは、あなたの気持に、そしていまという時代
 に敏感な政治を目指してます。」

 右は周知のように、今次参院選における新自由クラブの選挙用ポスターからの引用であります。ひとまず、この標語を手がかりとして検討に入ります。


 「新らしい時代認識が要求されている」という点については、わたくしどもも異存はありません。もんだいはそのなかみであります。「新らしい時代認識」は現行の政治に対する方法の水準での批判をも含んで行われないかぎり、さしたる意味を持ち得ません。同クラブの「時代認識」は、はたしてどのような次元で提起されているてしょうか。


 現在の政治が、国民から乖離している、という把握は、わたくしどもの主張するところと180度ことなります。むしろ、諸党派があまりにもその支持者、支持グルーブの直接・個別の利害に密着し、あるいはそれによって左右されていることこそもんだいであるというのがわたくしどもの判断であります。同クラブの把握の根拠は、「政治を政治家だけのものにしてしまったから」とされています。
 わたくしどもは、この主張が真に同クラブの認識であるとするならぱ、新自由クラブは衆愚政治、扇動政治を目指す、あるいはそれらへ転落してゆかざるを得ない政治集団であると断言します。
 こんにちの政治が「政治家だけのもの」であるならば、それら、政治を私物化している政治家を政治家たらしめている同クラブ以外の党派の支持者は一体、何でありましょうか。「政治家だけの」政治しか行わない政治家を政治家として支持している国民大衆は、すべて判断不能者か、ペテンにかけられているお人好し、ということになるのでしょうか。現在の政治が「政治家だけのもの」になっているという「時代認識」からただちに政治的無関心層への高い評価が導きだされるわけで、その愚劣なポスターのデザインといい、標語といい、まさに政治的無関心層、浮動層を照準していすす。
 わたくしどもはむしろ、信条としては保守主義者であるが、自由民主党への警告の意味て野党に投票するという人々、「保革逆転」を阻止するために、きわめて不本意であるが自由民主党に投票する人々、参加によって自己の政治的信条を表現することが充分にできず、しかしなお政治へのかかわりを放棄しない人々、まさにこのような人々の存在こそが保守再生の鍵をにぎっているのであり、その可能性の現実的な根拠であると確信しております。少くともこの標語をみたかぎりでは、新自由クラブにはこれらの人々とともに歩まんとする姿勢はうかがわれません。


 現在の政治は、政治家だけのものである、と主張することによって、新自由クラブは、右にのべたように屈折した政治参加を強いられつゝ、参加を追求している人々と共にあることを拒否し、「現在の政治」に背を向けている人々を中心的対象として「あなたの気持に敏感な政治」をやってあげます。と呼びかけているのであります。

 「あなたの気持に敏感な政治!」これがデマゴーグの呼びかけでなくて一体何てありましょうか。
次に「いまという時代に敏感」な同クラブの基本的な政策をひとつだけ検討してみます。


 同クラブはスローガンとして「親子三代が一緒にくらせる社会」を挙げております。多くの人がこのことを希望しているのは事実であります。一般論としては反対する人は少数でありましょう。
 しかしながら、このことを実現することはなみたいていのことではありません。まかり間違えば「列島政造」以上の急進主義政策となります。「親子三代が一緒にくらす」のが一般的である社会を実現するためには、わが国の経済構造、国土、資源利用等々に大変動を与えねばなりません。この変動の全過程が完全に把握され、かつ制御され得る、ということは絶対に論証できすせん。さらに変動を与えた結果、新たに予期しなかったもんだいが生ずるきわめて高い可能性に対しても深い考慮がなされるべきであります。合理的な思考を常とする保守政治家であれば、およそ堤起することのできない社会改造計画であり、「生産手段の国有化」にも匹敵すべき計画と言わねぱなりません。
 同クラブのリーダーの多くは自由民主党在籍当時、政治工学研究所に属しておりました。
 政治工学と銘うつからには、政治において工学的アプローチ、工学的方法を採用する、ということであろうかと思います。
 周知のように、工学の方法は、科学の方法と同一ではありません。工学の方法とは、目的合理性、ということであり、設定された目的達成のために、合理的な手段を積み重ねていき、この手段の体系を仮説として設定し、その各段階を実験によって検証し、実験によって予期せざる結果を生起した場合は、その時点において、対策、あるいは別の手段一仮設体系を考える、という、漸進的、合理的試行錯誤法であります。
 したがって、工学的方法を政治に応用しようとするとき、まず念頭におかねばならないのは、政治における実験の意味です。政治にかける実験は、実験室のそれと異って、失敗したからといって実験以前の段階に戻ってやりなおすことはできないということであります。このことと、保守主義の理念、すなわち、変化を恐れないが、制御不能な状態の招来を憂慮する、ということとを勘案した場合、まさにこのような急進主義政策をうちだす保守主義の政治工学研究所とは、一体何を研究していたのか、と考えざるを得ません。独断と偏見を承知でわたくしどもの感想を述べるならぱ、いわゆる、イメージ選挙、標語に象徴される、扇動政治、衆愚政治の研究でもしていたのではないか、というところであります。


6、むすび

 末だ、意を尽し得なかった憾みはありますが、以上、わたくしどもの決意を明らかにいたしました。試行錯誤のなかからこのようなかたちで活動の第一歩をふみだすにあたってまず、今日に至るまでに多大の恩恵をこうむった、多くの先達の業績に対して敬意と謝意を表します。わたくしどもの理論的作業は孤立したところで行われましたので、先達との対応は本冊子をもって最初ということになりますが、今後は、直接のご批判を期待させていただきたいと思います。

 批判的合理主義の唱導者である、カール・ポバー博士の存在なくしてわたくしどもが今日、このようなかたちで政治活動を決意することはなかったと思われます。残念ながら博士に批判的検討を仰ぐ機会はありませんが、明記しておきたいと思います。

 現に政治の現場にあって活動中の人々によって行われる批判は、わたくしどもにとってかけがえのないものであります。現に保守系無所属の立場を選択し、御活躍の諸先輩に対して、わたくしどもは、本冊子を契機として、理論的、実践的交流がはじまることを念願しております。ただし、机上の空論である、との評言には、実践によって応えていきたいと思います。

 わたくしどもが本冊子の基本的な読者として想定した人々、わたくしども同様、いわゆる戦後民主主義なるスローガンのもとで教育を受け、民主主義の具体例として、あるいは野党流の政治運営を眼のあたりにしながら成長し、民主主義に対して深い不安を抱きつゝ、なお民主主義を選択することを決意している諸君、いわゆる「浮動層」と一括されるなかの、自律的選択を貫いている諸君、
「保守」「革新」を問わずあらゆる政治党派の活動家諸君、
 暮夜、一人眼ざめて政治の現状と子供たちの将来、社会の将来とを考えあわせたとき、暗たんとせざるを得ない、すべての諸君に対して、わたくしどもは心から呼びかけます。


 わたくしたちが生き、わたくしたちの子供たちが生きる社会、今後とも解決すぺきいくたのもんだいが生起するであろうこの社会において、ただ個々人の英知と力の結集のみをもって、もんだいにたじろぐことなく直面し、情熱と合理的方法をもって解決にあたらんとするわたくしどもの意のあるところを明察し、より良き明日をめざしての努力の一端を、わたくしどもとともに、国民政党の創建という政治的課題の追求に与えられることを切望します。
 諸君の決起なくしてわが国政の前途には何らの希望もないことを銘記して、応答されることを期待します。

 

 国民政党期成同盟は、ここにみづからの決断と選択をもって、前人未踏の課題への第一歩をふみ出しました。前途への展望はただわたくしどもの行動のみがきりひらいていくものであることを肝に銘じて、しつように、そしてまた朗らかにこの途をあゆみつづける決意であります。

                                国民政党期成同盟

昭和52年8月

(以上で、「新たな国民政党の創建をめざして」全文の掲載は終わり)


● NPO ネパール奨学会 設立趣意書

ネパール奨学会は、私が参加しているNPO団体です。

参加申し込み、お問い合わせは下記に。

〒812-0016
福岡市博多区博多駅南2−11−26 福岡日本語センター内
     『特定非営利活動法人ネパール奨学会』
電話 092-481-7140 FAX 092-473-4190



『特定非営利活動法人ネパール奨学会』
設 立 趣 意 書

 日本は、敗戦の焦土の中から、奇跡的な経済成長を遂げました。そして今、世界中から注目されています。とりわけ、世界貢献のあり方が問われています。国論を分けて、政府は、PKOをカンボジヤに派遣しました。一方で、民間人の手で、様々なボランティア、支援活動が、世界各地で展開されています。

 今、東西冷戦構造は崩壊しましたが、南北の経済格差、食糧危機など、人道的立場から等閑視することのできない状況が続いています。これらの事態の背景には、様々な要因が横たわっています。それらの要因の中で、根本的で、かつ、重要と考えさせられる問題として、教育問題が指摘できると思います。

 現実に存在する貧困は、結果としての現象と考えます。貧困をもたらしている原因の一つが、教育問題ではないでしょうか。
世界の屋根といわれるヒマラヤ山脈によって北を遮られ、南部をインドによって封じられている小国・ネパールは、貧困に喘いでいます。
ヒマラヤ登山、トレッキングなど、日本人観光客の多くが、ネパールを訪れています。また、ネパールのルンビニが、仏教の開祖・釈迦の生誕地であることから、日本の仏教徒の多くが、巡礼に訪れています。

 私たちは、『経済大国・ニッポン』といわれています。その『経済大国・ニッポン』人がネパールを訪問するのは、単なる観光客であるに過ぎません。このことは、『経済大国・ニッポン』人は、ネパールを自らの欲望を満たすための対象としてしか考えていないといえましょう。
ネパール国にとって、観光収入は、国家的観点からも、大きな事業です。しかし、ネパールの現状を知る者の一人として、もっと、意識的、根本的支援をしなければならないと思います。私たちは、『経済大国・ニッポン』といわれる言葉とは裏腹に、決して、裕福な生活を営んでいるわけではありません。しかし、それでも、飢えることの心配だけはありません。むしろ、物質質的には、恵まれているとさえいえなくもありません。

 しかし、ひとり一人の力は、決して、大きくありません。それでも、多くの人々の善意を結集すれば、ネパールの地においては、私たちの想像をはるかに超える大きな力になり得ます。

 そういう意味から、一人でも多くの人々の善意を結集して、ネパールの子供たちに奨学金を贈る『特定非営利活動法人ネパール奨学会』を設立したいと考えました。

 どうか、あなた様にもこのような趣旨にご賛同をいただきますように、お願い申し上げます。その上で、ネパールの子供たちに奨学金を贈る『特定非営利活動法人ネパール奨学会』に加わっていただきますように、お願いを申し上げる次第です。

 何卒、よろしくお願い申し上げます。

     発起人(アイウエオ順)
岩 崎 隆次郎 福岡日本語センター・理事長兼校長
菊 池 高 志 西南学院大学法学部・教授
後 藤 勝 基 九州国際大学法学部・教授
清 正   寛 熊本大学法学部・教授
滝 井 義 高 田川市・市長
前 田   豊 弁護士
山 本 博 糸島医師会病院・院長

 (『特定非営利活動法人ネパール奨学会』の資料は、この行で終わり)