● 子どもの遊び場環境を充実したいA

◎ はじめに

 仙田満教授(東工大−子どもの遊び場作りの専門家)との出会いを大事にしたいと思います。人と人の出会いに重いも軽いも無いのかもしれませんが、この人の話をもう一度聞いてみたい。そういう思いで、東京工業大学の仙田満先生の研究室を尋ね、親しく懇談する機会を得ました。  
 事前に、仙田教授の著作である「子どもと遊び」(岩波新書)(表紙写真を参照出来ます)を頂いておりましたので、内容を自分なり(かって)にとらえてみました。

 私がそれ以前まで、子ども問題をどのように考えていたかは、このホームページの旧バージョンにリンクし、ボタン わたしが求める政治を押し、第一章 わたしが求める政治の「吉田つとむのリーフレット」をクリックして下さい。

★ 参考 「町田市こどもセンター ばあーん」の室内風景(写真で見れます)

◎ 要約

 敢えて、この部分には要約を作っていません。とりあえず、全部読み通して下さい。ここでは、文章の中に遊びも含めて書いていますが、しばらくおつきあい下さい。

◎ 寄り道  *私なりの寄り道ですが*

 子どもの遊びを語る前に、自分の遊びについて、少々。
 福岡にいた頃は、ディンギー(小型ヨット)を持っていましたので、友人と乗っていました―――スポーツ的な操りでなく、ごく普通の遊びとしてですが、クルーザーに乗っけてもらうこともありました。バイクも操ることはうまくありませんが、500ccのマッハ3(古いなー)にちょと乗ったことがあります。

 わたしは33歳の時、八木大介(木本平八郎)参議院議員の秘書として東京に出て来ましたが、それは昭和58年のことでした。、東京に出てきてからは、乗り物と言えば「宣伝カー」のみをしかありません。今では、職業的に乗るだけでなく、遊び的ですが車上の看板に「宣伝文句」を構想することもあります。
 で、もって、東京に来てからの遊びとなると、なにをして遊んでいるのでしょうか。

 「パソコンいじり」も楽しいのですが、今までに一番楽しかったことは、
真冬の日比谷公園(平成8年2月のことですが)の噴水前に野戦陣地を造って、阪神大震災の被災者の方と10泊11日の「座り込み」をしたことでしょうか。

 2月の底冷えのするとき、厚生省・飯野ビル周辺から集めてきたダンボールを敷き詰め、ただ座り込むのです。その人数も5−6人のことで、注意深く見つめないと、まさにホームレスとしか見えません。夜は、「ゴミかご」を柱にした囲いをしますが、天井もなく、寝袋に入って横になると、星空も見えました。  
 しかし、少年時代は、もっと陣地らしいものを造っていましたよねー。(青年時代は、もっと戦争ごっこらしいものを造りました)

 でも、この陣地は都立公園の中に、私たちが許可をもらわずに造ったもので、青島(当時の都知事)から何時追い出されても問題なかったわけです。日比谷公園を根城にしているホームレスの人たちが、我々の集団を心配してくれていたことでも、普通ではなかったのですね。

 「震災被災者が加入する生命保険金の払い込み期間の猶予延長」を掲げて、上京してきた4名の被災者が、そのことを大蔵省に要求したものです。ここでは、その政治的な意義や決着はさておき、震災被災者の野戦陣地に相応しい「ダンボール板を張り巡らした、お城」での、10泊11日間は、支援活動で常駐したおじさん(3−4名)にとって最高の遊びでした。―――<吉田つとむ>だけだという声もあるでしょう。

★ 公園の一角を占拠する―――実は、違法なんですがね。ちょと、泊まりがけ
              の形でお借りしたと言うことで、ごめんなさい。
★ ダンボールを拾い集める――都会には、たくさんあふれていました。
              私たちは、勇んで街に向かいます。
★ ダンボールで陣地を造る――プラモデル作りより、遙かに楽しい。大蔵省や
              国会を廻る前線基地です。
★座り込み、結果を待つ―――ただ、座って待つことの楽しさ。沈黙は金。
★ 雪が降る―――――――――プルーシートを被りますが、これは少々つらい。
              9日目の氷雨の日に、テントの差し入れあり。
★連絡ごとから開放―――――電話や日常生活から開放されて、生き生き。
★ ご飯を食べる―――――――本当は、飯ごう炊さんがおいしいのでしょうが、
              差し入れものや、付近の食堂で食事します。
★ 寝る―――――――――――真に寒い日です。凍えて死んだらニュースにな
              るのかなと、バカなことを頭に浮かべます。
★ 起きる――――――――――公園の水飲み場でまず「歯」を磨きます。
★ 同行する―――――――――吉田の唯一の力です。国会議員や秘書団にに強
              い「つて」があります。誰に頼むか、話を入れ
              るか、知恵の出しどころです。
★ お金―――――――――――おじさんボランティアは、お金は十分に持って
              行きます。粋がって、カンパします。
★ 沈黙―――――――――――議会でしゃべりすぎているので、沈黙がいい。
              同宿者は、「お坊さん」、「大学助教授」、「大学
              講師」でしたが、話をするのは被災者本人。
★撤去―――――――――――要求が一定満たされ、野戦陣地を粛々とたたむ。

 かくして、楽しかった大人の遊びは終わりました。奇しくも翌日は、町田市議会の3月議会の初日で、わたしの初当選(平成6年)から2年が過ぎ、所属会派が総力を奮う、議長戦(選でなく、戦なのです。議会のシャッポと言える重要な人事取り)の火蓋が切って落とされたのでした。 (寄り道はここで終了です)

◎ 仙田教授の著作におどろく

 子どものあそび場環境ということを、こんなに考えている人がいたのですね――仙田教授のように。
 「私は子どもの遊びは環境の問題についてはいつも大げさに言うことにしている。今の日本の経済的発展は、食べるものはなかったがあそび場にもあそび時間にも友たちにも恵まれた環境に育った人々によって支えられている。」と氏の「子どもとあそび」のあとがきで書いています。

 そうなんですね。私たちの子どものころは、何の制限も無い広場や原っぱを駆け回り、廃屋や洞穴を密かに隠れ家にしたり、森でドングリを拾い、川で魚を捕ったりしていました。遊び場は無限にありました。暗くなるまで家には帰らずに遊んでいました。団塊世代として生まれたせいか、数十人が一緒に遊ぶこともありました。私たちの親は、子供を食べさせることに一生懸命だったようです。私は、そんな親のありがたさを感じるより、ただ子供同士で夢中になって遊んでいた気がします。

 また氏の著作の冒頭には、「子どものあそび空間、あそび場所は、昔も今も基本的には変わらないのではないかと考えている。1970年に私は子どものあそびの原空間として、四つのスペースをはじめて唱えた。自然スペース、オープンスペース、アナーキースペース、アジトスペースである。その後、いくつかの調査を経て現在は、道スペースと、遊具スペースを加えた六つをあそびの原空間といっている(遊具スペースに建築スペースを含む場合もある)」
と記しています。

 氏は、六つの原空間の説明を次のようにしている(引用が長くなりますが)、

 「第一の空間は自然スペースである。自然スペースの中で魚をとり、虫をとり、泳ぎ、木にのぼり、ぶらさがり、かくれ家をつくり、土手をすべりおり、洞穴にもぐる。そういう空間の中で、子どもたちは生命の重さを学んだように思う。

 第二にオープンスペースである。オー゜フンスペースの中で子どもたちは走りまわり、鬼ごっこやさまざまのボールをつかったゲーム、陣とり、縄とび、野球をする。そういうゲームの場は広がりのある空間である。

 第三のスペースは道である。道は、子どもたちの出会いの空間であり、いろいろなあそびの拠点を連係するネットワークのあそび空間である。

 第四のスペースはアナーキースペースである。廃材置場や工事場のような混乱にみちた空間である。このような空間でのあそびは追跡、格闘などのワイルドなあそびが多い。子どもたちの想像力を刺激する。

 第五にアジトのスペースである。親や先生、大人に隠れてつくる子どもたちの秘密基地をアジトスペースと呼んでいる。子どもたちの共同体としての意識をはぐくみ、友情や思いやりだけでなく、ある時は裏切りや暴力をも体験させる。

 第六に遊具スペースである。これは児童公園の建設とともに着実に増えてきている。遊具スペースはあそびが集約的であること、遊び場の象徴性をもっていることなど、今後も無視できないスペースである。

 この六つのスペースは、その重要度において自然、オープン、道という三スペースが中心的な空間で、アジト、アナーキー、遊具という三つのスペースが従の空間である。子どもたちがこのどれをも豊富にもつことは難しい。しかし少なくとも三つぐらいのスペースを十分にもっていることが必要ではないかと考えている」

 言われてみると、なるほどと思うことばかりです。私の自宅のすぐそばに児童公園があり、砂場や遊具でいつも子どもたちが楽しく遊んでいますが、一方で、第三のスペースとされた道でも、子どもたちどうしで石蹴りをしたり、一輪車に乗ったりして遊んでいます。子どもたちが家の外であそぶとしたら、最初の場所は家の前にある道であることは当然のことかもしれません。

 第四のスペースとされるアナーキースペースと呼ばれる場所は、なぜか懐かしい響きですが、今日では果たしてあるのでしょうか。廃材置場や工事場はどこも囲いをしており、子どもがどこかに隙間を見つけることは不可能に近いことです。子どもが囲いを押し破って入ると、たちどころに捕まってしまい、厳しく罰せられてしまいます。しかし、このアナーキースペースをどこかに確保することが、実は子どもたちの成長に欠かせないことかもしれません。とかく監視され、時間に追われる現在の子どもたちにとっては、自然スペース以上に意外性を持つ場所であり、想像力をはぐくむ機会を与えるのではないでしようか。

(以下、記事は次回に続く。平成11年8月時点のこの項は終わり)



● 子どもの遊び場環境を充実したい@

子どもセンター第1号館(ばあん)が完成し、多くの子どもが訪れています。

 こどもの日(平成11年5月5日)にオープンした「子どもセンター」が大盛況です。名称は、「ぱあん」と名付けられました。キャッチフレーズは、「ケガと弁当 自分持ち」となっていますが、施設の設立主旨が伝わります。
 利用できるのは、幼児から中高生までを対象にした施設ですが、時間帯で利用者が少しずつ変わっていきます。最初はお母さんに連れられた幼児たち、午後はもう少し大きい子ども達と小学生、夕方以降は中学・高校生が主体となってきます。
 親が一緒であれば、子どもが夜の時間を過ごすことも可能ですし、実際に親御連れが夕刻に、施設を訪れる光景を目にします。
 町田市の場合、従来から学童保育の施設はあちこちにありますが、一般の子どもを対象とした施設は初めてです。これ以降、当面市域の4カ所を目標に大規模の子どもセンターを作ることになり、今後が大いに楽しみです。
 今回完成した子どもセンター1号館には、毎日大勢の子どもさんが押し寄せていますが、こんなに施設の完成が待ち望まれていたのかと驚かされます。子ども自身が自由に使える空間が、このようにすばらしいものだったのでしょうか。
 しかし、楽しい施設で内容が充実しているせいか、車で訪れた親子連れが多く見受けます。相模原市のように、子どもが歩いていける距離にある、身近な地域施設型の子どもセンターも必要と考えます。財政不足のことばかりが強調されますが、子どもの育成をおろそかにすることはできません。

子ども施設の設計家・仙田満教授と懇談

 子どもの遊び場作りの専門家である仙田満教授(東工大)と懇談致しました。東京工業大学の仙田満先生の研究室を尋ね、親しく懇談する機会を得ました。
 面談の前に頂いた著作を事前に読み込んで、大岡山の研究室を訪れましたが、教授から、都心部に限らず郊外地域でも、子ども達の開放された空間が如何に減少しているかを数字で教えて頂きました。この問題は重要な課題であり、しばらく、本の内容について触れることにし、各地の施設も尋ね回り、実地に状況を把握してみたいとおもいます。
 友人の設計家である、武政参徳氏(相模原市在住)の協力も得たいと思っています。 
(以下、続く)