● 永年勤続サラリーマン

    表彰者に敬意を表したい。

◎ (表彰式の次第と経過内容)

 平成11年11月16日、町田市の健康福祉会館において、町田市技能功労者と永年勤続従業員に対する表彰が行われました。

 町田市は、大企業の大規模事業所が全くなく、しかも、多くのサラリーマンが都心部に通っていることが特徴です。そうした中で、市内在住のサラリーマンが、町田市内の同一企業に、30年も勤続するというのは大変なことであり、また、他に表彰の対象機会も無いので、意義深いことと思います。(サラリーマンは所得税も住民税も、給料天引きで納税を義務づけられているわけですから、本来、税務関係で別途表彰されてもおかしいことはないのですが) 

 表彰式では、それぞれの対象者に、主催者である寺田和雄 町田市長と、石井重信 商工会議所会頭が、式辞を述べ、感謝状と記念品を贈呈されました。

 技能功労者として、各産業分野の43名が表彰され、また町田市内の同一企業の永年勤続被表彰者では、勤続30年が11名、勤続20年が41名、勤続10年が92名が表彰されました。代表して、上記の関係者4名で壇上で表彰されました。挨拶は、技能功労者の代表1名、永年勤続者1名がそれぞれ行われました。

 式典の来賓として、市議会より、渋谷敏頴市議会議長、私(吉田勉総務常任委員長)、渋谷都議会議長、河合都議、町田公共職業安定所長、町田商店連合会会長が出席し、渋谷市議会議長、渋谷都議会議長が祝辞を述べられました。(紹介順に記載) 

◎ (永年勤続者の挨拶と、サラリーマン出身の吉田つとむの感想)

 (勤続30年表彰の方の挨拶が立派でしたので、以下に紹介致します)  

◆ (勤続30年表彰)町田レジン工業株式会社 山口 繁 氏の代表挨拶

 本日は永年勤続功労者として、このような盛大な素晴らしい場所で皆様に表彰していただき、有り難うございました。心よりお礼申しあげます。

 かえりみれば、30年という年月は長かったようでもあり、短かったようでもあります。

 30年間には好景気や不景気の山が何度かありましたが、現在のような長く厳しい状況は初めてのように思います。

 このような不景気の中、いろいろな会社でリストラが行われ、大勢の人々が職を失っているのに、私どもは30年も長い間、同じ職場に勤めさせて頂いている事を深く感謝致しております。

 これからも身体に気をつけ、一日も長く勤められるよう頑張りますので、よろしく御願い致します。

 本日は誠にありがとうございました。(句読点以外は、挨拶をそのまま文章としています。間違いがあれば、編集者である、吉田の責任です)

◆ サラリーマン出身議員として、<勤続30年>被表彰者に敬意を表したい。 

 勤続30年ということは、立派なことであり、偉業と言えます。もちろん、勤続20年、勤続10年もそれぞれに大変なことがらです。自分の意志として勤続意欲がいくらあっても、会社の事情でやむなく転職せざるを得ないこともあるし、ましてや一つの企業自体が何十年と生きながらえていくのは、至難の業でもあるわけです。

  比べて、私はと言えば、サラリーマン生活自体は長く続けていたのですが、一所に勤続10年が最長で、後は3年と持たない状況でした。今までの職歴・履歴を書類にすると、履歴欄は行が一杯に埋まります。別に、「仕事を辞めたい、辞めたい」と思って働いている訳でなく、なるべくなら長く続けたいと願っているのですが、二番目以降の仕事についてから、次々と転職を重ねる状況が続きました。

 そうした私から見ると、大きな企業がほとんどない町田の街で、同じ会社で数十年間の勤務を続けることは至難の業と思えます。公務員の皆さんに申し訳ないですが、民間の中小零細企業の経営自体が不安定的であり、好・不景気の影響や、産業分野の消長ももろに被る形になっています。言うまでもなく、役所や大企業で30年間勤続する方は大勢おられますが、このように中小・零細企業では、極めてまれなことです。

 ちなみに、私が最初に勤めた仕事は、「博多人形」の卸売り業でした。もちろん、会社は本場の「博多」(厳密には、福岡市内)です。博多人形は、分類的には雑貨関係に入り、玩具・人形類に相当します。当時、この玩具・人形業界ではリカちゃん人形が人気でした。まだ、電子ゲーム機器はまず見あたりませんでしたが、入社10年目の頃、すこし出始めたのではなかったでしょうか。まさか電子・テレビゲーム機器が、このように成長分野となり、テレビゲーム業界・ゲームソフト業界が一大産業になるとは思いもしませんでした。かの「任天堂」はトランプで有名な会社でしたが、私には、その営業マンは最も地味なタイプな人が多かった気がしていました。

 私の勤め先である会社は、「博多人形」の製造・卸・小売及び輸出と、多岐の分野にかかわっていましたが、私自身は、「卸」の部門にいました。九州管内に限らず、四国・中国・関東にある、デパート、おみやけ品屋、ホテル、家具店等や人形問屋を廻りました。ただし、あくまで零細な企業であったため、自分で製品を作り出す(職人さん)以外の仕事を、それぞれに経験しています。例えば、直営小売店の店頭に販売員と立ったり、輸出仕立ての書類準備や、製品梱包に汗を流したこともありました。

 以下、さらに蛇足。当初の仕事を考えると、労働者のイメージにはかなり遠く、会社員というより、「丁稚・番頭」という用語のほうが似合う業態に近い仕事でした。ただし、今から思い返すと、修行を積んで「のれん分け」に預かる制度が無くなっていく時代でもありました。商業分野の零細企業にも、「丁稚・番頭」さんの世界から、否応なく「会社員(サラリーマン)」の時代に向かっていたのでしょう。業界に入って以来、博多人形業界は一本調子で生産・販売拡大しておりましたが、オイルショックを期に成長が止まり、業界は停滞傾向に向かい、現在では以前に比べはるかに縮小した業界となっているようです。私が勤務した会社は、いち早く会社の大幅整理を行い(現在で言う、リストラを行い)、その後完全に廃業となりました。

 前後しますが、私が博多人形の販売会社に入社した当時(昭和46年−当時は個人商店−その後有限会社組織)は、博多の地場産業として「博多織」が有名で、それを扱う会社の営業マンは輝いて見えました。それから、5年ほどで博多人形の成長期を迎え、オイルショックまでが全盛でした。私も早朝から深夜まで休まず仕事をしましたが、モーレツ社員という言葉がはやっていたのではないでしょうか。一方の社会的な出来事として、70年安保闘争や学園紛争が巻き起こる時代でありました。私は、社会的な矛盾というか、不合理な事象に対して、傍観する立場をとることは意に添わず、友人らと自前の政治研究グループを組織し、あるいは政治行動団体に主体的に関わりました。その表現の結果が、「資料編」に別掲の「国民政党期成同盟の呼びかけ文書」はその象徴であります。まさに、そのようにして、20歳代を過ごしました。

 その後、博多の地場産業としては、「からし明太子」が大爆発の人気を得て、一大産業になって行きましたが、私は地場産業の世界と離れ、一時期、印刷会社の営業マン、その後土木資材・機械販売会社の営業マンを続けました。博多にいて仕事をしてきた内容として、ホワイトカラーにはほど遠い存在であり、会社員という名称が相応しく、「サラリーマン」の名称が一番近い存在であった気がしています。それぞれの経歴の会社には、労働組合はどの会社にも存在せず、どれもがちっぽけな会社でありました。ですが、社会的な関心・政治的な感心は深く、30歳を迎えると、昭和58年のサラリーマン新党結成の運動に至るまで、仕事を続ける傍ら、「サラリーマンの為の政党を創る」活動に全エネルギーを注いでいました。

 幸いにして、そのような「動き」に誰もが好意的で、取引先との関係も良好でした。「仕事と政治」が一人のサラリーマンに両立することはまれですが、とにかく廻りの皆さんの好意で、営業マンとしての成績も程々ものを残せました。昭和58年、サラリーマン新党は参議院比例区選挙の挑戦が功を奏し、国会議員を生み出しました。その結果、わたしは、東京に出てくることになり、初めて秘書(参議院議員第1秘書)兼政党事務局員(2名で事務局を構成)を務めることになりました。そこで初めて、政治専業となり、サラリーマンの為の活動をするとは言え、サラリーマンとは異なった立場になりました。それも、決して順調でなく、また、短期間に終わることになりました。以下、略。

 会社員もしくは、サラリーマンという名称は、私に取って、このようになじみ深い存在です。ましてや、「永年勤続」の用語は、私にとっては、敬愛の対象と言っても過言でない存在です。

 表彰者は、世代的に、私とさほど違いが無いようにお見受けしました。表彰者は、一つの会社の30年にわたる勤務を通じて、就職時期に高度成長期があり、その後オイルショックが起き、幻のバブル景気を見て、そして平成不況に悩まされる中で、よくぞ健康を保ち、人間関係を維持し、幾多の荒波を乗り越えての仕事をこなされてきたことでしょう。 

 最後に、町田市内の企業に勤続30年を経られた、全部で11名の方に敬意を表するとともに、全サラリーマンの皆さんに「幸いあれ」と祈念致します。

(「永年勤続サラリーマン表彰者に敬意を表したい」の記事は、この行で終わります)