4期連続TOP当選 吉田つとむとは?

過去各種選挙に15回立候補し、8勝7敗する。直近の令和4年の市議選に出て勝利し、4期連続トップ当選。個別対応形式のインターンシップが好評で若者育成を図る。自民党を排除された後、現在まで完全無所属、支持政党なし。6期目に議長も務めて改選し、7期目に町田市議選史上最高票を獲得。さらに、8期目は7期目を上回る史上最高票9206票を達成。議会内では「無所属」に参画。ユーチューブ「発見動画チャンネル」を運営。零細企業営業マンを務め、政治経験が長い。ネット関係の著作、講演もある。

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「失業」を具体的に知っていますか?2020.4.17

所感・つぶやき
今年のサクラはとても綺麗でしたが、余裕を持ってそれを堪能できた方はなかなか無かったでしょう。

 自慢気な書き方ですが、「失業」を具体的に知っていますか?2020.4.17を書くことにしました。私は転職が何度もあり、様々の仕事をしてきました。無職の時代もあり、今となってはその経験が役立っていると居直り的な発言ができます。妻は、倒産を複数回体験しています。実際に、日本で失業を体験すると大変な事態になります。諸外国と日本では様々に異なっている点があるようですが、学者ではないので、身近な日本の、具体的な生活の視点で考えてみたいと思います。

 まず、私の失業について書きましょう。最初は30歳の時でした。突然、「1か月後に会社をたたむ」と社長から言われました。決まった退職金を用意すると言われ、最後の日まで一日も休まずに働きました。その際、社長とは一言の喧嘩もせずに別れましたが、後で思えば、予告手当をもらったのではなく、最後の日までびっしり働くとはいささか阿呆な自分でした。それまで家族的な雰囲気の小さな会社であり、高校卒業後、就業の規定もまったく知らずに働いてきました。社員では、私が一番長く務めたわけです。ある意味、自分のことより、他を思いやることも必要でしたが、そうした訓練をしていないことも悔やまれます。小売りの店舗も「中洲」の一等地に持っていましたが、借地であり、会社整理とは別に先に閉店していました。最後は、卸業の本社に10人弱ほどの規模でした。マックス、私が入社した直後で20人ほどだったでしょう。もっとも、その時は創業社長がバリバリでしたが、間もなく急死され、奥さんが10年も事業を続ける結果になりました。そこで、後半は上司も無く、ずっと営業職で働いていたわけです。

 「会社整理」で解雇、失業したので、失業保険が直ぐにもらえました。ただし、10月か、11月に閉鎖だったのでボーナスをその年はもらっていなかった、退職金は無事にもらえました。次は、務めた会社の社長(入社時に、病気入院中)が亡くなり、同業他社に買収となりました。自己都合による退職となりました。もう一つ、お世話になった会社に入り、そこが一般の企業の務めでしたが、政治に縁が深い人が経営人にありました。そうして東京に出てくることになり、これも自己都合の退職でした。

 そうして、国会議員(参議院議員)の秘書になり、若干のお金を持って上京しました。秘書の当時の公設第一秘書でした。収入の一部を党に収めることを前提に仕事をしていました。サラリーマン新党と言う全く新しい政党で、党首が学者であったことで、組織的にはまるでルール無しの状態でした。私は二人目の当選者:八木大介氏(本名:木本平八郎:京大、三菱商事副部長を退職し、公募で候補になりました)の第一秘書になりました。もう一人、第二秘書の現役の女子大生で優れた学生でした。ある意味、この世界では優秀すぎたという結果でした。私は秘書でしたが、実質、党務を担当していました。議員とは馬があって秘書になったものですが、何の縁も無かったのですが、ただ、参議院選挙と言う長期間(当時、23日間)の選挙で一緒に全国を回る間に、私も候補者の一員であったのですが、そうした議員ー秘書の関係に一挙になりました。途中の経過は省略し、一挙に退職が来ました。自分が知らない間に、私は秘書を辞めていました。2-3日経過して知った次第です。何とか、党の職員になる手続きを同僚(たった一人の職員で、女性の事務担当者)の協力で得て、平然とその職を務めました。実質的な業務は大半変わらなかったので、表面上の対応は変わりませんでした。その間に結婚があったので、生活上の激変はそうとうなものであったろうと思います。

 ただし、党首との縁が芳しくなく、秘書を務めた議員との関係が上手く行くはずもなく、私は新天地(町田市を含む旧東京11区)で衆議院議員選挙に出て、敗退しました。供託金も没収となりました。次に、2年後のただ一人の当選者議員が、党務を担当することになりましたが、かなり、閑職になりました。地方に宣伝カーで持って遊説係をすることや、地方選挙の事務所に出向いていってことが続きました。現実にはいたたまりなく自己都合の退職となりました。送別会が行われ、党の支持者も含めた参加者(40-50人ほど)があり、「円満退職」という言葉で白々しく送られました。

 その次は、これまた小さな会社ですが、古い知人の会社でお世話になりました。60年安保の闘士が経営するもので、不思議な仕事をしていました。次の衆議院議員選挙をやるために退職しました。社長が亡くなった時の葬儀に出席しました。なお、その会社にお世話になるきっかけは、旧60年安保の闘士の葬儀に参列したことがきっかけでした。健康保険、年金やあるいは雇用保険は無い条件で働いていました。その間、国保、国民年金でした。

 その後も決して順風満帆な時期は少なく、主に選挙に打ち込んでいました。失業の世界より、落選、「さる以下」の時代が何度もありました。

 自分の経過はこれほどにして、他の人の失業に関して、大手の会社が倒産して零細に来た方は気の毒でした。社会意識に大きな差があり、プライドが許さないことが多いように見受けました。私には些細と思えることに、屈辱的な印象を受けるようで、簡単に退職をされる光景を何度も見ました。中数人の会社で、2-3年の間にその人数くらいの人が辞めることに遭遇しました。半面、良く辛抱できるなーと思える環境で会社にいた人を見ました。大半は、その後一度も会うこともありませんでした。私は、福岡・博多から東京、しかも、その後、郊外の町田市に移ったということで、それまでの縁の大半が無くなりなりましたが、仕事が順調に行ったというより、あまり芳しくない状態の話題の方が多くを耳にしました。総括的に思うに、ヘッドハンチングならいざ知らず、いざ、失業となったら、思いッきり違った分野の就職の方が良さそうな気がします。下手なプライドより、謙虚に新しい職場になじめると思うからです。それより、その職場に執着を持ってより長く務める方が何より、幸せに至ると思っています。それは、就職する以上は、社会保険制度が充実した会社が良く、数十年後にその結果がでると思います。できる限り、正採用の社員を続けることが好ましいと思います。そういう意味では、公務員になって、定年まで勤めあげる方々を毎年見かけるのですが、部長クラスが本会議場で、課長クラスは委員会室で定年退職者の紹介、挨拶があり、拍手で送ります。何より、充実した職歴と思います。

 私は厚生年金が25年にわずかに満たない期間です。後は国民年金を納めて、合計40年でした。受取額がはるかに少なくなりますので、頑張って、その期間までなんとか厚生年金を納める就業を図るべきでした。ただし、その内、厚生年金の標準的納付期間が45年ほどが標準額になるかもしれません。ますます、難しい年代になりました。*私は、市議会議員歴が7期目(途中で辞職して、別の選挙に出て落選して、市議会にカンバック)で、最初に13年勤続し、次いでカンバックして1年が経過した時点で、議員年金制度が終わりました。幸い、私は多くは無いですが、議員年金の受給資格を有することができています。一般のサラリーマンの方で、企業年金基金がそろった方に準じる年金受給資格があります。ただし、今は議員を続けているので、議員年金を受給することは退職するまで無く、また、通常の年金も大幅にカットされた額の実質、国民年金ほどの額の年金受給になっています。体が動かなくなるまで、今の仕事を続けるかもしれません。その辛抱心を含めて、意外と水があっているようです。

 なお、男女雇用機会均等法が実質は別として定着しました。女性が生涯務める時代になったという意味かもしれません。それであれば、女性こそ、職場に執着して、安定雇用を確保する意義があるのだと思います。辛抱第一だと訴えます。#失業保険,#会社整理,#倒産,#解雇,#定年退職,#自己都合退職,#円満退職,#厚生年金,#町田市議会議員,#吉田つとむ

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