昨日も少々歩きました。家から10分も歩くと、私が住む東京都町田市と横浜市の境に来ました。「都県境をまたぐな」と言われますが、この辺りは生活圏は同じで、都県境を歩くことはごく普通だとまず、言っておきます。
私は、昭和61年(1986年)4月に町田市成瀬の一角に越してきており、その時以来、同じ住所(現在の表示は成瀬が丘1丁目)のアパートの同じ部屋に暮らしています。今年の今は令和2年( 2020年)4月となり、ちょうど34年目を迎えた次第です。2度の衆議院選挙(旧東京11区・中選挙区時代)に立候補し、その後、8回の市議会議員選挙を戦い(7勝6敗)、その間、都議選(補選を含む)に2度挑戦し、現在(直近市議選3期連続トップ当選)に至っています。地元のことはくまなく知ったつもりでしたが、昨日歩いた(昨日も成瀬界隈から出ず)ところに、初めて「義民・原島源右衛門」の供養碑があることを知りました。
その説明文(地元の名士、中里猪一氏記載)によると、この辺りは、成瀬村東光寺と呼ばれていました。*ちなみに、私が住むアパートは旧成瀬村の村長を務めていた方が所有者でありましたが、自分が住むアパートの持ち主が元村長であったとはまったく知らずに暮らしており、何年も経ってのことでした。
中里氏の記載の冒頭には、庄屋の原嶋源右衛門が徳川時代の享保元年(1716年)に一家断絶、家財田畑没収というこの上にない極刑に処せられたとありました。続いて、次のように記載されています。<処刑された原因は所謂「元禄バブル崩壊後の財政再建に奨励された新田開発後の混乱」>と書かれています。
庄屋の原嶋源右衛門と東光寺講中(この講中は今に至るも続いており、関係の方々のつながり、行事が東光寺のどんど焼きなどの毎年連綿と続いています)一同が、長津田(現在の横浜市緑区長津田)との境界線周辺に迄至る土地の葦原を奨励されている新田として苦労の末に完成させました。無価値の葦原がコメを生み出す地となり、長津田村との間に境界争いが生じましたが、つまり「争論」となり、和解の協議が両者で真剣に長い時間をかけて行われ、開発した新田の一部を長津田村に渡されることで決着がついていたものを、役人が聞きつけ、その和解事項は追認しましたが、事の発端となった、庄屋の原嶋源右衛門を見せしめにすることによって、新田開発の地域間の争いを役人が幕府の権威で納める形に集約させたものとなりました。
汚名を着せられた原嶋源右衛門は、お墓の建立、慰霊碑の建立が禁止されていたところ、15回忌に村人(東光寺講中?)たちにより供養碑が建立され、その後、風雪に耐えて存在し続けまそいた。それが平成7年(1997年)2月5日に凍結で剥離崩壊し、平成16年( 2004年)没後288年に再建されたと記載されています。詳細、全文は下段の写真をご覧下さい。
この原嶋源右衛門の供養碑に手を合わせてみると、政治家とあるべき姿は「義民」ではなかろうかと思った次第です。#原嶋源右衛門,#供養碑,#義民,#政治家,#成瀬村東光寺,#長津田村,#新田開発,#都県境,政治家,#吉田つとむ
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