4期連続TOP当選 吉田つとむとは?

過去各種選挙に15回立候補し、8勝7敗する。直近の令和4年の市議選に出て勝利し、4期連続トップ当選。個別対応形式のインターンシップが好評で若者育成を図る。自民党を排除された後、現在まで完全無所属、支持政党なし。6期目に議長も務めて改選し、7期目に町田市議選史上最高票を獲得。さらに、8期目は7期目を上回る史上最高票9206票を達成。議会内では「無所属」に参画。ユーチューブ「発見動画チャンネル」を運営。零細企業営業マンを務め、政治経験が長い。ネット関係の著作、講演もある。

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郷里の政治家:死と隣り合わせの一生、田中六助自民党幹事長2020.8.30

所感・つぶやき
福岡県田川郡福智町の田中六助顕彰像

 郷里の政治家に田中六助と言う人物があり、最後は自民党幹事長の重責にあった人物です。各大臣を務め、総理になることは無かったが、政調会長を務めた後、上記のように、大自民党の幹事長で、政局の大詰めになった時こそ、真価を発揮したと言われていました。尊敬される野戦の人物でしょう。郷里では、他に古賀 誠氏も実力を発揮した幹事長として名を成しました。その古賀 誠氏は、福岡県山門郡瀬高町(現みやま市:筑後地方という、近くの大牟田市三池炭鉱があり、近くの久留米市はブリジストンの発祥の地)の出身ですが、私自身その町の生まれでした。他方で、上記の田中六助氏は、福岡県田川郡上野村(現:福智町:筑豊地方という、いわゆる筑豊炭坑がある。広域で炭坑が広がる地域)の出身です。

 その田中六助氏は政調会長時代に糖尿病を悪化し、視力が極端に落ちる。そのため、国会の壇上質問で立ち往生したとウキペディアには書かれていますが、伝聞では勧進帳を読んだと記憶しています。現に、田中六助氏は、当時の党内の政争に深く関与し、宏池会の幹部として、大平総理再選の取り組み(選挙中に総理が死亡)、鈴木善幸内閣実現に奔走する。その鈴木総裁の誕生に合わせて、政調会長に就任しています。その後は、鈴木善幸と宮澤喜一(後に総理大臣)が縁戚関係になり、内部の影響力が薄れると、田中六助氏は中曽根康弘氏に接近する。

 中曽根康弘内閣が誕生すると、政調会長に留任する。実は、この時に前の段における勧進帳事件が起きている。それでも、党内権力を失せず、中曽根康弘内閣の維持に奔走する。田中角栄元総理の元に中曽根支持を求めて、篭に担がれて、密かに入り込んで談判した、あるいは選挙で自民党の議席数が減ると、当時の新興政党:新自由クラブを政権に取り組む工作をしたとあります。田中角栄派の二階堂幹事長が退任に追われ、宮沢喜一と争って、中曽根康弘総裁の下、ついに幹事長にしたとされます。

 その後、病症が悪化して入院するも、公明党・民社党を取り込んだ二階堂擁立構想に対立し、田中角栄派の大物、金丸信総務会長に、「国民世論は何を求めているか」を訴え、中曽根支持を求めるその役を果たしています。ウキペディアには「1985年(昭和60年)1月31日、糖尿病の悪化に伴う心筋梗塞で死去。享年62。」と記されています。ちょうど、この頃、私は、新興政党のサラリーマン新党の創設に端っこの方でかかわり、候補者の一員になり、議員公設秘書、兼、党の事務局員として上京しています。

 政治家の有るべき姿として、人に尽くして奔走する。その分、幾多の敵も生み出す。田中六助氏の政治活動の歴史には、感服するものがあります。
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