田中良氏は、30年前に同じ選挙(1990年(平成2年)2月18日執行)に出ています。彼は、杉並区を含む旧東京4区で進歩党公認、私は、旧東京11区で推薦の立候補でした。本来は、関わり合いがあるサラリーマン新党で立候補するものでしたが、すでに落選していた党首の青木茂代表は衆議院選をやる意思はないとしており、参議院に在籍した平野清氏は、多忙をもって対応がありませんでした。結果的に、サラリーマン新党の関係は縁が薄くなり、進歩党の関係が急に深くなりました。この選挙では、二人とも落選。しかも泡沫的な得票でした。*掲載のポスター写真は、その前年に撮影したもので、衆議院選挙に立候補予定するも、所属のサラリーマン新党からは相手にされず、メディアからも存在しないように扱われる時代でした。孤立無援で立候補の準備を進めていました。政策は、「国際福祉博開催」としていました。これまた、誰からも相手にされませんでした。
それぞれに、私は同年の市議選(衆議院選挙のつながりで、進歩党公認で立候補。間もなく、消滅)するも、私は次点で落選でした。落選の要因は様々にありますが、衆議院選挙を準備する上でサラリーマン新党に未練を持っていた自分に最大の非がありました。
田中良氏は、翌年の杉並区議選に出ましたが、彼はトップ当選でした。その後、彼は、日本新党の発足に続いた都議選(日本新党公認)に転身して当選、その後は民主党で活躍し、ブームに乗じた時期で、都議会議長までなりました。私は、田中良氏が都議会に当選した半年後、やっとの市議選に当選(国政で野党に転落した、自民党公認)しました。徐々に選挙に強くなりましたが、市議会の自民党内では少数派に転落、4期目1年で、都議会補選でるも落選。前後して、自民党から排除され、2度都議選では除名勧告を受け、やむなく離党して、完全無所属で立候補して落選。最下位でした。それで、市議会に復帰し、因縁の市長とは距離を置き、自民党主流派とは対峙する立場を取り、現在に至っています。5期目の副議長はその関係で就任したもので、6期目の議長は、自民党を含めた合従連衡策を駆使して就任して、満了したものです。
他方で、田中良氏は、都議会議長を辞して区長選挙に出て当選し、現在に至っています。国とは、一線を画した施策を取り、東京都の小池都知事とも自分の判断で、見事に対峙しています。
上記のように、私は市議会にカンバックし、副議長、議長になりました。本来であれば、私も市長になって、彼と比べれるような施策を自治体運営を持ち込んでそれお担うべきですが、当選が無理なことは目に見えたことだと理解しています。もとより、戦いを緩めよう、しっぽを巻こうという発想は、私には皆無です。
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