4期連続TOP当選 吉田つとむとは?

過去各種選挙に15回立候補し、8勝7敗する。直近の令和4年の市議選に出て勝利し、4期連続トップ当選。個別対応形式のインターンシップが好評で若者育成を図る。自民党を排除された後、現在まで完全無所属、支持政党なし。6期目に議長も務めて改選し、7期目に町田市議選史上最高票を獲得。さらに、8期目は7期目を上回る史上最高票9206票を達成。議会内では「無所属」に参画。ユーチューブ「発見動画チャンネル」を運営。零細企業営業マンを務め、政治経験が長い。ネット関係の著作、講演もある。

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支持政党なし」の説明①2021.02.06

所感・つぶやき
タスキに、「支持政党なしの方々の代表」と表記に、

 

 「支持政党なし」の説明①を書きました。副題は、無所属と支持政党なしの共通点、相違点としました。 
「支持政党なし」都民代表の肩書を持つ、吉田つとむが、体験的に無所属と支持政党なしの関係において、共通点と相違点を述べてみます。
政治(家を含む)において。

この当時、ボディーにも「支持政党なしの方々の代表」と表記していました

 吉田つとむは、政治活動、政治的な活動を長期間継続してきました。個別に参加を言うと、中学生時代には、政党の下部組織に入って活動していました。高校時代には、権威主義的な在り方に疑問を持ち、組織からは離れ、個人で、あるいは市民運動的なかかわりに変わりました。その後は、学生運動の華やかりし頃は、アナーキズムの思想、その行動形態に関心を寄せ、小グループに関与していました。

 ただし、現行の制度がもっぱら代議制を前提としており、いかなる主張も政党や政治勢力のかかわり無しに、難しいと考えてきました。そうした時に、政党制度が選挙の中に確実に織り込まれ、参議院全国区が参議院比例区され、個人で全国レベルの選挙に出ることができなくなり、すべてが政党名を掲げ、個人名が消えた選挙に変更になりました。昭和58年のことでした。*現在は、その制度をベースに個人名もおり込める方法に改定されています。

 それぞれに、突出したスローガン、階層をもじった政党が出現した。際立ったものは、サラリーマン新党(2議席)、福祉党(1議席)が出てきました。私は、そのサラリーマン新党の設立、構想段階からかかわりました。それは、当初サラリーマン同盟と名乗っていました。他方で、芸能人や作家らの有名人が集まっていたグループは、無党派市民連合を結成して、参議院選挙を戦うも、当選者を出せずに終わりました。有名人がいたにも関わらず、「無党派」の無力さが露呈しました。その分、それまで有名人とは決して言えない、青木茂氏が創設したサラリーマン新党が2議席も得る結果を得ました。また、そのサラリーマン新党は、候補者の公募を行い、その公募候補者が1名当選したのも特徴でした。関わったものの見解として、その選考基準がを次の特に、軽々しく変更してしまった。そのために、当初のルールで集まった枢要な人物が反乱を起こしたダメージが2度も続き、人心を失い、党首の再選もありませんでした。トップのご都合主義がいかに無能に作用するか、つぶさに見てしまいました。

 その選挙の2年後は、衆参同時選挙となり、吉田つとむは、サラリーマン新党の衆議院候補になりました。これが、今も住んでいる町田市を含む、東京第11区でした。八王子市、町田市を含む、多摩地域の半分以上の人口を持つエリアでした。面積では、町村部である奥多摩地域を含む広大な地域を対象とする巨大選挙区でした。得票が若干足りずに供託金没収でした。とにかく、次を目指すも、その党首(すでに落選)は、候補者を立てる意思がないとして、政党公認はなく、吉田つとむは、複数のマイナー政党、団体の推薦を得た無所属候補となりました。惨敗でした。厳密には、サラリーマン新党という政党の所属でしたが、実質、立候補に反対を受けた状態でした。しかし、それを具体化するものは、その選挙に中にいた人を除いて理解しがたく、よって、私は離反しました。十分に説明できた状態ではなく、自分にもマイナスをもたらした面を否定できません。

 次いで、マイナー政党で終息直前の進歩党公認で市議選も出るも、次点に終わりました。その次の市議選に当選するのですが、これまた特殊な環境下の選挙でした。その間、お世話になった人が進歩党の都議会議員 阿部俊之議員であり、その阿部俊之都議が進歩党をたたみ、自民党に入ることになり、その後に、私も自民党に入ることになりました。しかし、高波がそこまで来ており、阿部俊之都議は落選し、その後、小沢一郎氏の新生党に落選した状態で参加しています。私は、また、乗り換えは止めることで合意が成立していました。自民党は、国政の政権政党から転落し、日本新党を創設していた細川政権になっていました。私は、正式に自民党と名乗る時期には、当時の自民党市議の大半は無所属の候補として立候補しました。と言う次第で、吉田つとむの自民党公認はスム―ズに決まりましたが、選挙は、自民党公認はただの4名で全員が下位当選でした。大半は、無所属の選挙を戦い、普通の成績で当選者もいれば、落選者も出るものでした。

 その後、私は自民党で精進していましたが、役職に関して、幹事長時代までは、何とかぎりぎりの多数派でしたが、それが終わる時期に、メンバーの離脱、乗りかえがあり、少数派に転落しました。市長とも折り合いが良くなく、しばらくして、都議選(補選)に出ることにしました。これが惜敗。もう一度、本選に出ようとすると、除名処分をすると言う呼び出し説明を受け、止む無く、自民党を離党することになりました。*現在、郷愁はなく、利害相反することばかりです。 それ以降の選挙は、完全な無所属で立候補しています。都議選落選と、復帰した市議選3回です。政党の推薦も一切受けないスタンスです。とりわけ、いかなる団体も、特定政治家の支持も受けない立場です。ただし、この時の市議選は、一般政党、それに準じる政治団体、あるいは新興政党の公認の候補、あるいは党籍を持て、あるいは過渡期の政党の推薦、支持の候補がありました。それ以外に、諸雑派の縁を持つ人材、それに孤立無援とも言える完全無所属の候補がありました。吉田つとむは、その完全無所属の候補に当たりますが、無所属の候補者が少なからずいる場合、自分を峻別する方法が難しく、「支持政党なし」=non-sectが、わかりやすいのではないかと思いました。その3期連続トップ当選した時の選挙では、「支持政党なし」と大書していました。
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 吉田つとむHP            町田市議会議員 吉田つとむのブログ

 

 

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