初めて、博多人形の「ごとう」に立ち寄りました。実際には、50年以上前に何度かうかがったことがあります。出身地の福岡、博多にはたびたび来ているのですが、だんだんと縁が薄れゆくので、(思い切って、博多人形店-ごとう:中央区清川)立ち寄ったものです。場所で言うと、渡辺通一丁目、ホテルニュー大谷の近く、また、道路の反対側には、有名な柳橋連合市場があります。
店に入り、店主の方に「店を見学させてください」と話すと、店主の方は「どうぞご覧ください」と優しく答えていただきました。しばし、人形を眺めた後、「私は『三舛』にいたものです」と話しかけると、「吉田さん」といきなり、返答していただきました。ご店主(後藤和範 氏)は実に記憶力が良く、フレンドリーな対応をしていただきました。
すぐに、「どうぞ、おかけください」と応接席を進められ、こちらがどういう状況かも確かめずに、優しく対応されました。こうした数十年ぶりの訪問は、「選挙のお願い」か、「あるいは仕事に困って、何かを買ってもらいたい」という時に相場が決まっているのですが、 瞬時に、後藤和範 氏 は親しく語りかけられ、席に座っての話になりました。話せば長くなりますが、博多にいた時の仕事の変遷。東京に行った経緯が政治(選挙)の分野で、秘書に東京に行ったこと、決してうまくいかなかったことを話したうえで、自分で選挙をやり、町田市という東京の地方都市で、市議会議員を務め、その間も上位の都議選で出て、今回も失敗していることを話しました。市議会では、議長も務め、それなりのベテランをあったことも加えました。10分くらいは、その三舛人形が閉業し、博多人形界を離れた以降の説明したでしょう。今後、博多に戻る機会も少なかろうということで、どこかに立ち寄ったことを添えました。
私がその博多人形の業界にあった時、その「ごとう」のご子息 (後藤和範 氏) が中学生に時代に、修行のため、何度か私がいた会社に来られたことがあります。私は営業をしていたので、市外に出ていくことが仕事でしたが、同行されたことが何回かありました。話では、「小倉」の井筒屋の名前が出てきました。もちろん、私はそれ以降もかなり長くその会社に務めましたが、そのご子息とは、彼が高校入学されて以降は、顔を合わせることも無く、縁が途絶えていました。私が、彼を久しぶりに発見したのは、週刊誌(記憶では、週刊明星)の中でした。
私が博多にまだいた時のことか、東京に出た後のことであったでしょうか、その記憶が定かではありません。 その、後藤和範 氏の高校時代、のちの有名歌手になった小柳ルミ子さんが、博多にいた時に交際があった、純愛の世界の出来事ですので、歌謡界に入ることで別れが来たという記事であったと思います。小柳ルミ子さんは、その後、宝塚出身ということもあって、デビュー曲(=わたしの城下町)以降も発表作の全部が大ヒットするという大歌手になっています。以降も、ミュージカル、TV俳優としても大活躍の人となっています。小柳さんと後藤さんのお付き合いがあったのは、彼らが高校生の頃の話で、まさに純愛そのものの世界のことであったわけです。
さて、その 後藤和範 氏 は、仕事も祭りも博多っ子そのものです。博多と言えば、山笠の法被姿が有名ですが、それが最も似合った人の一人が 後藤和範 氏 でしょう。
その雰囲気は、地元の漫画家、文化人の長谷川法世氏の作品(博多っ子純情…後に映画化)に登場するヒロインとヒーローにかぶさる雰囲気を持っていました。異なる点は、ヒーローが博多人形作家の息子ではなく、博多人形の小売店のご子息であったことと、ヒロインの名前は「小柳類子」とよく似ていますが、本物の小柳ルミ子さんははるかに美人であることでした。
さて、博多人形の業界は、極端に冷え込んでしまい、伝統工芸、伝統産業の中で衰退に衰退を重ねているようです。私がその業界にあったころに羽振りが良かったところも大半が店をたたむか、大幅に縮小してようでした。そうした中で、この博多人形のごとうは、当時と同じ規模、あるいは店舗面積は当時よりやや拡張しているように思いました。博多駅や空港からは、少し離れた柳橋寄りなので、観光客が立ち寄ることは少なく、ネット販売が主体のようでした。高級な良い作品(能物)が飾ってありましたが、写真はオリジナル品の部分と店主を一緒に取られていただきました。突然のことで、一緒に写った写真はためらいました。
時間がない中で立ち寄ったもので、あわただしいものでした。機会を見つけて、また、訪れ、博多人形自体を紹介したいと思います。
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吉田つとむHP 前町田市議会議員 吉田つとむのブログ用語の説明
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