さて、駅で、憂国忌のパンフをいただくの続きの記事です。
駅で憂国忌のパンフをいただく2021.11.25
昨日、11月25日の憂国忌というのは、故 三島由紀夫と故 森田必勝の没後51年の追悼の集いです。令和3年11月25日 星稜会館の大ホールで開催とパンフレットに記載されています。
故 三島由紀夫と故 森田必勝の2氏は、学生紛争が盛んだった1970年(昭和45年)11月25日に、作家・三島由紀夫氏が楯の会隊員ら合計5名と、自衛隊の市ヶ谷駐屯地内に入り、東部方面総監部を拉致して占拠し、隊員らをバルコニー前に集めることを求めた後、憲法改正のため自衛隊の決起(クーデター)を呼びかけた後に、三島氏と森田氏がその場で割腹自殺をした事件のことで、三島事件、あるいは楯の会事件です。TVニュースでリアルに全国に伝えられました。自衛隊(員)には、反応が無かったことが印象的でした。
この事件には、新左翼に多くの影響を与えました。それ以前の1969年には、大菩薩峠事件(赤軍派の多数が集まり、武装訓練を行うところ、事前に情報漏れがあり、その場に居合わせたものは一網打尽となった。その後、先軍派の一部(田宮麿ら)は、1970年(昭和45年)3月31日に福岡空港でよど号ハイジャック事件を起こし、朝鮮に渡った。当時、福岡市に住んでいたこともあり、その半容を知るものです。
また、別の赤軍派の一部は、他の左派と合同し、連合赤軍となる。これが軍事組織化を目指し、山岳行動中に、内部でリンチ殺人事件を次々に起こし、最後は追い詰められ、あさま山荘事件を引き起こし、警察の一大捜査部隊の突入によって壊滅したのは、TVの同時中継で数日間に放映されました。
学生紛争は、各大学内でことごとく鎮圧、制圧をされ、他方で、赤軍系の軍事路線は、部隊とメンバーの捕捉で壊滅していき、新左翼勢力の運動は一挙に衰退していきました。
そうした意味では、日本において、極左、極右の運動が一般性を失った時期に相当したものと思います。
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吉田つとむHP 前町田市議会議員 吉田つとむのブログ
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