平原、井原鑓溝、三雲の遺跡と伊都国歴史博物館などを訪問しました2022.11.20
特に、平原遺跡は平原王墓の他、多数の遺跡群が近年になって(昭和40年)になって発見されたものでうであり、日本一の大きさの銅鏡が発掘されたことで有名です。その意義は、弥生・古墳時代の遺跡・遺物発見として、その銅鏡の大きさ(日本一が5枚)と数量(全部で40枚)の観点において、さらに、要鮒ガラス製の装飾品類の存在が1986年(昭和61年)からの発掘調査で明らかになった、広大な佐賀県吉野ケ里遺跡に匹敵するものだと考える(後述)ものです。その銅鏡は、大型内行花文鏡と呼ばれ、そのうち4面は「伊都国歴史博物館」(後述)で、1面は「九州国立博物館」(金印が展示されていることで有名)で展示されています。
その平原王墓の銅鏡(細かく破砕された状態)は、地元農家の農作業中に偶然発見されたものですが、その発掘、復元には地元に住む在野の研究家である原田大六氏の献身的な取り組みの意義が大きく、かつ、その作業に加わった糸島高校歴史部員の参加が無くては難しかったことであり、伊都国の考古学的な役割の重要性は発揮されなかっただろうと思います。
井原鑓溝、三雲遺跡は、ほぼ同じ地域にあり、こちらは、江戸時代から遺跡として発掘されており、伊都国の中枢域であるとされていました。今は、公民館があったり、古墳の上部は小さな神社となっていました。当然のことですが、遺物は散逸したものが多いと記述されています。
ついで、「伊都国歴史博物館」は、伊都国にまつわる遺跡で発掘された主なものを展示する資料館であり、古い博物館に増設された様子が、玄関が反対側にあることから一目瞭然です。ここには、上記の弥生時代に限らず、古く縄文時代から昭和時代までに品々が部屋ごとに展示されており、また、訪問時には、秋季展として「三雲南小路王墓発見200年記念 伊都国王誕生」が開催され、九州国立博物館や福岡県内の出土資料の銅鏡などが展示されていました。
建設当初から、原田大六氏が名誉館長になっています。
伊都国は日本と中国を記した魏志倭人伝にも記載されているほど、客観的な由来があり、かつ、出土品との比例がされるものです。大半の論者がこの伊都国の文明がそのまま大和政権につながったとみていますが、私はそこには、大きな断層、あるいは別種なものであると思っています。端的には、原田大六氏の視点から、さらに古田武彦氏の九州王朝の視点の方が、よりリアルであると思っています。
なお、現地を巡るには、地域的にはローカルであり、交通手段としては鉄道駅から徒歩で1時間ほどを擁し、バスはコミュニティバスがありますが、観光・視察で回るには時間的な制約が多く、自家用車か、レンタカーと言うことになります。全国ネットでありますが、ニコニコレンタカー筑前前原駅南口店 を利用しました。
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