全国で唯一、校内に博物館(郷土博物館)を持つ、福岡県立糸島高校の優れた点は、以下の点であるでしょう。資料の基にしたのは、訪問先の糸島高校郷土博物館とその展示資料、公式ガイドブック、その他の糸島高校HPなど資料です。2022.11.21
糸島高校の教育
創立120年になるとのことでした。もちろん、その前身は旧姓の中学校です。と言うより、正確には、それ以前、明治35年に創立された前原女子実業補習学校のちの糸島高等女学校と言うものだとの説明があります。当時において、尋常小学校で教育を終え、実社会に出た人は大勢います。
校長、教師、生徒の原田大六
糸島中学校HPには、昭和6年のこととして、「糸島中学校創立十周年事業として大島六太郎校長により郷土室設置。安河内隆教諭の指導のもと、当時中学3年に在学中の原田大六氏が中心となって展示品を収集。」と記載されています。校長が歴史に造詣が深く、心が広く、安河内隆教諭が構想深く、教育熱心で、かつ、生徒の原田大六氏であったということになります。
すでに、戦前の時点で、専門家から一級の折り紙がつけられています。
ただし、原田大六氏は、その研究の道には進まず、その後、実社会に進み、軍隊に入り、代用教員になるも、軍隊の経歴から公職追放にあっているとウキに記載があります。
戦後の原田大六氏の苦力
糸島中学校HPには、戦後の原田大六氏を以下のように記しています。
「原田大六氏復員。郷土室再興。なお同氏は、九州大学教授中山平次郎氏の指導のもと日本考古学協会会員となり、在野の考古学者として活躍。沖ノ島、志登支石墓群、前原のシンボルである日本最大の内行花文八葉鏡を出土した平原遺跡の発掘で著名である。また、ベストセラーとなった、著作「邪馬台国論争」で考古学ブームを巻き起したことでも知られる。同氏は西日本文化賞受賞。伊都歴史資料館名誉館長として同館前に銅像がそびえる。」と記しています。
平原遺跡は農家の作業の中で偶然見つかり、その発掘事業を行ったのは原田大六氏です。私が福岡市に住んでいたころ、その偉業は承知していましたが、まだ、そのことに関心を振り向ける余裕はありませんでした。以下の理由です。(少々脱線ぎみでしょう)
その一方で、社会問題にはもっと関心が深く、水俣病患者支援、あるいはそれ以外の公害問題にも奔走していました。他方で、これらの写真以前から、政治的には反権威主義の潮流に参画し、アナーキズムの思想を持ってきました。
糸島高校歴史部
旧制中学の糸島中学校の生徒であった原田大六少年が、遺跡発掘に没頭する戦争前の時代から、戦争に出征して、遺跡発掘から遠ざかってから時代、少しおいて、民間研究家として、糸島高校歴史部員と共に歩んだ時代に移って行っています。そうした時期の歴史部は、平原遺跡の発掘に至る過程で最大になったようです。過去の栄光と言うものに変換して過程でもあたっと思います。
その後は糸島地方は都市化も進み、高校生が遺跡を探し、遺物を集めて回ることが困難になり、急速に歴史部員が減少することが進行し、平成12年には糸島高校の部活動から消えていったと、糸島高等学校 郷土博物館 公式ガイドブックに記しています。文化財行政がその役割を吸収して過程であったわけです。
ポスター 最優秀賞
平成20年になって新たな部員が参加して、新しい体制に変わっていったとされています。以前からの考古物への関心だけでなく、近世への関心や古文書文書への関心に広がったとされています。その結果、研究発表にも重点が置かれ、学校内での展示だけでなく、伊都国歴史博物館や九州国立博物館での発表を重ね、奈良大学が主催する「全国高校生歴史フォーラム」や「日本考古学会総会」で実施する高校生ポスターセッションにも発表の場を広げ、特に、後者ではトップの最優秀賞を複数回取得していていました。
こうしてみると、歴史部の活動内容が大きく変わってきていることがわかりますが、これからは映像や資料が主体になったZOOMで会議で評価できるもの作成されていくのがメインになるのでないでしょうか。とはいえ、九州国立博物館のメインは金印でしょう。次いで、平原遺跡から出土した、日本最大の銅鏡(1面)でしょう。世界遺産「北海道・北東北の縄文遺跡群」の最大の出土品は三内丸山遺跡の巨大掘立柱建物の遺構でしょうし、次いで、亀ヶ岡石器時代遺跡から出土した、遮光器土偶でしょう。ただし、九州の場合は、沖ノ島の遺物の全面的な調査が考古学的には一番重要でしょうし、伊都国からの新たな遺跡発見が最も事態の解明を進めるものと思います。
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