4月30日、会食の際、隣の席の方から、吉田さんは、サラリーマン経験がありますか?と問われました。
その時は、「いや、結構長くサラリーマンをやり、政治の道を歩み出しました。と答えましたが、もっと、別の言葉で答える、あるいは、「なぜそのように思われましたか?」と問い返すことが必要ではなかったかと再考しました。反省、後では意味がない、その場で即応するべきでした。
社会経験として、ずっと政治の道を歩んでいると思われたようでした。それだけ専念していると思われるのならば良いのですが、もっと一般生活を知っていないように思われたのであれば、それは大変なことです。
まず、自分のサラリーマン経験ですが、若い世代の時はまさにそのものでした。営業職を務めていました。しかも、博多人形と言う福岡由来の人形を専門的に取り扱ってきました。自社の店舗で販売するより、他の都市に出かけて得意先を回っていました。通常は、週1-2回のペースで、筑豊から筑後と言うエリアのデパートを主体に回っていました。人形は通常、玩具と隣合わせにあり、当時は、日本人形、フランス人形が一緒に店頭にならび、顧客はそのそれを買うのかという選択のアドバイザーの役割でした。
他に、長崎や熊本、宮崎などを合わせて月1ペースで回っていました。こちらは、デパートより、お土産店をメインにしていました。その他、四国にも年に数回訪れていました。行動は、たった一人で動くもので、会社に前日予定を知らせると、後は全て自己決定です。車の移動が多かったため、車がパンク(当時はたびたび遭遇)や交通渋滞で、極端な無理な日程をこなしていました。少しでも、余裕があると、新規開拓の時間を確保していました。「博多人形」と言うものは、今よりはるかに知名度がありました。長時間労働、休日も取らずに営業に回っていました。工芸品販売と言う特殊な分野の仕事でありました。また、自分で開発した商品では、民芸品がありました。小規模な自衛業の方から仕入れをして、それを取引先に拡販を進めていました。
さらに、空いた時間には、政治行動(反権威主義の立場)に割り振っていました。休日出勤を重ね、自分が必要とした日を確保していました。それが、今の議員活動につながっているのでしょう。私は、取引先で社会状況、政治状況の話をしていました。今と違って、そうした情報の入手が容易ではなかったこともあるでしょう。
10年以上、その会社にいたのですが、会社が店をたたむということになり、30歳当時で、まるで違った業界の会社に移りました。新しい会社は印刷の会社でチラシや伝票、パンフレットを受注する業務ですが、納期や仕様のことで異が痛くなりそうな仕事でした。社長が亡くなり、他社の業務移管と言う時点で退社しました。今にして思えば、チラシやパンフレットを作った経験が議員活動に役立っています。
次に、不思議な縁で、土木建設資材の販売会社に入りました。期間は短かったのですが、服装で人を見ない、自然を相手にする資材や機械を販売するのは、少し慣れるととても楽しい仕事でした。ただし、その会社の幹部が政治にかかわっており、当時の新党ブームにかかわっていました。*それを承知でその会社に入りました。そういう中で、その新党は議員が誕生し、スカウトされ、その秘書と政党事務局員をやる選択をしました。それが、昭和58年の状況です。その後も、決してうまく行くことはなかなかなく、心機一転、自分が候補者になる道を探し当て、町田市に越してきましたが、具体的な展望があってのものでなく、当面の危機を回避するというものでした。
思えば、サラリーマンとして、ネクタイをした営業職から、開襟のシャツを着る転換をしました。当時は、複雑な気持ちでしたが、今にして思えば、いろんな方と偏見なくお会いしたことが今の自分を作ってきたのだろうと思っています。お互いに信用を基礎とする関係を作ってくることができたのでしょう。
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吉田つとむHP 前町田市議会議員 吉田つとむのブログ
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