実際には、3期目(前半、議会運営委員長)のスタートでしたが、その間に所属する最大会派に分裂があり、少数派になっていました。3期目の後半、吉田つとむは会派(市議会自由民主党)の幹事長になります。その最初の仕事は、議長選挙になりました。1票差で議長をその自由民主党会派から出せましたが、その2年後の市議会改選を前に、その議長はライバル派閥に移籍して、会派は大打撃を受けました。*今にして思えば、この苦境と試練が、その後に続く粘りを生んでくれたものと解釈するようにしています。
吉田つとむが4期目になるとさらにその所属会派(自由民主党)は没落していきました。所属会派から議長候補を出さず、吉田つとむは、ついに議長候補になれませんでした。代わりに起きたことは、他の会派の議長候補を支持する判断を下すのでした。それも最悪の結果になり、その候補も敗れる事態になりました。*こうして、自分が自由民主党の本流にあった時期には、議長候補にあることがありませんでしたが、将来に向かって、自由に活動する基盤ができたものかもしれません。
その後、1年で吉田つとむは市議会議員の職を辞し、都議会の補欠選挙に立候補しました。自由民主党公認です。同じ市議会議員だった、民主党候補に敗れました。それ以降、吉田つとむは自民党から排除の攻勢を受けました。都議会に2名の候補を出したくないとする風潮がありました。自由民主党から放逐されることになりました。最後は除名勧告を受け、やむなく自由民主党を離党することになりました。それで戦った都議選は惨敗でした。それでも、無所属で、どの勢力の支持や応援をもらわず、個人でよく戦ったという意見がありました。市議会に復帰する道を選びました。選挙戦を戦ってみると、その5期目の選挙は思わぬ高得点のトップ当選でした。苦難で選挙に強くなりました。新たな支持が広がりました。政党所属候補に対して、無所属で戦えることが証明でき、新たな展望が開けました。
復帰すると、元の関係が深かった議員と同じ会派を組むことになりました。吉田つとむが無所属になっていることで、会派名は「自由民主党」から「志政クラブ」と言う名称の会派名になりました。他派と連携することになり、交渉してその「志政クラブ」会派に副議長ポストが来ることになりました。*ポストは、決して自然に来るものではありませんでした。つまり、その際、議長は公明党の川畑一隆議員が3度目の挑戦で当選しました。意外にも、吉田つとむが副議長になりました。
後半は無役で過ごしました。組合議会議員に就任し、その後、その組合議会の副議長になりました。その2年後、内部任期の改選で、吉田つとむが所属する会派から、また、新たな副議長が誕生しました。それが、藤田学議員です。その間、保守系会派が3つありましたが、その議員任期中の最後の時期に、自民党議員が統合して新たな会派を構成することになり、新たに吉田つとむは置き去りになりました。他に、2名の議員が吉田つとむと同じ境遇になりました。それが、改選で思わぬ連携をすることにつながりました。
平成26年(2104年)、吉田つとむは6期目の当選を果たしました。再度、トップ当選でした。会派は数か月前、所属会派に取り残された3人が新たに合同しました。その際、みんなの党(その後、解散)で当選した議員も一緒になり、「保守連合」と言う新たな会派(最小会派)を結成しました。会派代表の新井克尚、大西宣也、白川哲也の3議員と吉田つとむで4名となりました。この会派結成で、吉田つとむは初めて議長選挙に立候補する機会を得ました。*この立候補経験は、自民党議員時代は無く、「保守連合」と言う新会派の自由性によって保障されたものでした。この自由に行動するポジションを前提に、議長選挙に立候補しました。吉田つとむわずかに2票で、4名の立候補者数でしたが、最下位でした。大西宣也議員が同調してくれました。この際、その大西宣也議員がその議長選挙に続く、副議長選挙に当選しました。私が所属する会派が、連続して議会の需要ポストを占める結果になりました。
次いで、2年後の役職選挙(後半)では保守連合は候補者を擁立せず、見送りました。自民党の佐藤伸一郎議員が議長に当選し、副議長には共産党の殿村健一議員が当選しました。町田市議会で、自由民主党の所属議員が議長に当選するのは久しぶりの事でした。そして、今回の議長辞職があり、次いで議長選挙となり、吉田つとむ(保守連合)が当選しました。6期目の吉田つとむが議員になって以降、最小会派の議長は初めてでした。*それ以前も含めて、最小会派の候補者が過半数の以上の支持を得た例も無いでしょう。さらに、副議長の経験者が議長になることも極めて珍しいことでした。*私が知りうる範囲では、2例目でした。さらに、選挙のトップ当選者が議長になった例も、吉田つとむ自身が初当選した以降、初めて見る事態でした。
もとより、この間の選挙が「人生双六」ではないので、これで終わりでなく、これは新たな始まりです。
より開かれた議会で、公正かつ活性化した議論を求めていきたいと思います。それをアシストするのが議長の役割と考えています。