この視察報告書は、町田市議会無所属会派(松岡みゆき代表、新井よしなお議員、吉田つとむ議員)で福岡県田川市に出
向き、田川市石炭・歴史博物館と同館が収蔵する山本作兵衛の作品を鑑賞したことに基づき関連の事柄を記載したものです。
内容は詳述2と詳述3に相当
田川市石炭・歴史博物館の入り口
田川市石炭・歴史博物館の名称の意義は、田川市が日本の産業黎明期から高度成長期に至るまで、日本のエネルギーを支えた石炭を産する主要都市のひとつであったことにより、炭鉱が閉山した後も、その遺跡や遺物を残していることによるものです。石炭産業の雄大さ、その技術の高さなどに感心するものでした。
施設の学芸員の方の話によれば、この施設がある田川市三井炭鉱跡地や遺跡等を世界遺産とするところ、当時の炭坑設備機器材に不足(三井三池炭鉱から運んできたものが展示されていると言う)があり、十分な要件を満たさず、逆に、炭鉱の記録画を多数作り上げた山本作兵衛の作品が日本初のユネスコ世界記憶遺産にも指定されたというものでした。展示の作品を見て、その偉大さを改めて認識した次第でした。
炭坑事故時の救援隊員の服装 炭坑坑内の機器類は色がついていた、山本作兵衛作品でわかる説明
私が、初めて、山本作兵衛の作品を見たのは、改修前の横浜美術館でした。原三渓コレクションという壮大な作品収取物を展示したものでしたが、その中に1品だけ、山本作兵衛の炭坑記録の作品があるのを記憶していました。そのため、かねてからその他の作品の大半を保有する田川市石炭・歴史博物館を訪ねてみたいと思っていました。それがようやくかなった次第でした。
田川市石炭・歴史博物館を訪ねて始めた知ったことですが、今回の原画展時には炭坑の記録画は1枚もありませんでした。すべて、企画展の原画でした。「タイトルは、戦後80年特別企画展「戦争と、炭坑のマチ田川」というのもので、冒頭には、令和7年度田川市石炭・歴史博物館 山本作兵衛コレクション原画企画展 とされていました。
写真を撮れないので、口頭ですが、明治期の日露戦争1904年(明治37年~1905年(明治38年)を題材にしたものでした。山本作兵衛は、1892年(明治25年)5月17日 – 1984年(昭和59年)12月19日)の生涯であり、日ロ戦争の体験は少年期のことになります。日本が日清戦争に続いて、日露戦争において大国に勝利できたことは、当時の少年たちにとって、血湧き肉躍る心境をもたらしたことでしょう。
印象的な絵は、ステッセル将軍が登場するもので日本軍の勇猛かかんな様が記してありました。ステッセル将軍は乃木希典将軍に対する敗軍の将ですが、(尋常)小学校の唱歌にも出てくる人物です。「旅順開城 約成(やくな)りて 敵の将軍 ステッセル 乃木大将と会見の 所はいずこ 水師営」の唱歌を明治生まれの母はよく口ずさんでいました。今の時代は、TVの中継、インターネットを通じて、ミサイルやドローンの映像動画が自分のパソコンやスマホの中にも登城しますが、ある意味、当時の青少年には、もっとリアル感を伴っていたのでしょう。
次いで、米騒動(1918年―大正7年)の記録画が出ていました。米騒動の発端は富山で漁師の主婦らがコメ不足に際して、コメよこせの騒ぎを起こしたものが全国に広まったものです。学芸人の方による話では、米騒動は筑豊の山にも伝わりました。山本作兵衛の兄もかかわり、司直に手にかかったということでした。そのために、米騒動は極めて身近な事件となったようでした。
ということで、目当ての炭坑記録画は1枚も展示されていませんでした。戦争画、米騒動の画には、軍人が度々登場しますが、多数の一般人が登場しています。他方で、炭坑記録画は、山本作兵衛が明治から戦後まで生きたことで、幅広い時代と炭坑の様子を見せてくれるのだと思いました。
山本作兵衛はその生涯を見ると、大半を炭鉱夫として過ごしているようです。絵画を美学校などで習っておらず、かつ、独学ということでもなく、炭坑の坑内で働いていたと言うことのようです。そうした意味では、絵画の才能が天才的に備わっていたと考えるのが最も正解なのではないでしょうか。
山本作兵衛のコレクションは、田川市と地元の福岡県立大学(福岡県田川市伊田)によって、記録文書としての世界遺産として2010年に申請され、翌年2011年に登録されたとされています。この世界記憶遺産には、「アンネの日記」が登録されていますが、ある種、同種の価値があると見なされるものは、個人の目を通じて世界を見ていると言うものでしょう。アンネは、暗い部屋から外の世界を見つめ、山本作兵衛は暗い坑内で過ごしながら、世界とのつながりを連想していたのでしょう。
この個人の作品を世界の偉業のステージに引き上げたことに関心を抱きました。自治体としては小規模な田川市と、地元の一公立大学が共同して、世界のステージに輝く作品を紹介、認知に至る経緯を作り上げた努力と精神も称賛されるべきものだと考えるものです。
もとより、この山本作兵衛のコレクションは、それまでに社会的、美術的な評価を受けていました。誰が関わったかに関して、興味を持って見つめてきました。
坑内の再現 立坑と再現した炭鉱住宅
経歴を見ると、子どもの頃に、節句の土人形の写生をしていたと言う。次いで、小学生6年では、西洋紙に時代絵をかいて近所の子どもに売っていたと言う。炭坑で働き出してからは、日記や記録を残していたという。
1955年(昭和30年)に、炭鉱閉山で退職とあるが、63歳であり、この時代でも半数が退職を迎える時期まで現場で働き続けていたが、1957年に炭坑の宿直警備員になっている。その間には、戦後は日記の余白やチラシの裏に絵を書き出したという。1958年からが炭坑の作業画や生活の絵ができ始めている。
当初その絵画の価値に注目したのは、長尾鉱業所会長の長尾達生という人で、多くの協力を得て、自費出版が行われている。次の広がりが、1962年に田川市立図書館館長の永末十四雄が山本作兵衛と記録画のことを知り、資料の筆写を始めた上で、山本作兵衛に、郷土史研究会を紹介している。そのことで、炭坑の子どもたちを描いたスケッチブックを寄贈する形態になっている。それ以降も、山本作兵衛は、水彩画を作成し、それも田川市立図書館に寄付しています。剛毅な精神を備えていたのでしょう。
それらを外部に発信した功労者は、上野英信(大正炭鉱―大正行動隊(サークル村)や木村栄文であろう。上野は、全国放送番組を作り上げ、木村は地元局を通じて、ドキュメンタリー作品を作り、芸術祭賞をたびたび受ける力を有していた、良きテレビ時代の制作者だったのだろう。上野英信は行動派知識人の先導格で、谷川鴈と並んで、当時の思想界で枢要なポジションを示していたと言えよう。そうした中から、講談社の編集者の目に留まって画集が出ている。一方で、地元福岡の葦書房が本格的な画集を発行している記録がありました。1970年台、その先駆性で全国的にも注目されていましたが、今回調べてみると、今はその葦書房も閉店して、ネットの古書本店になっていました。
様々が消えゆく中で、彼らの取組が山本作兵衛コレクションの作品群を作り出す後押しし、世界記憶遺産という永遠の世界を作り上げてきたのではないでしょうか。
*今回の視察で館内、作品が撮影禁止でした。
さらに、この他に残された筑豊自身の遺産として、労働歌「がんばろう」(森田ヤエ子作詞―旧山田市・現在の嘉麻市)があることを紹介しておこう。
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吉田つとむHP 町田市議会議員 吉田つとむのブログ



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