楽市楽座(ライオンズ石油物語)
(05/04/05)

 この記事は、 「ライオンズ石油とライブドア」 や、ライオンズ石油と紀伊国屋文左衛門」の続きです。

<目次>
★ - 楽市楽座(石油の昭和とネットの.. - 吉田つとむ 03/19-10:51 No.5995
代替ガソリンで多大な利益確保 - 吉田つとむ 03/19-11:42 No.5996
昭和の紀伊国屋文左衛門 - 吉田つとむ 03/19-12:57 No.5997
国が取った圧力策 - 吉田つとむ 03/19-14:27 No.5998
年末年始のクライマックス - 吉田つとむ 03/20-00:07 No.6005
城南信金の融資ストップ - 吉田つとむ 03/20-00:30 No.6006
正月は連絡が取れず - 吉田つとむ 03/20-00:40 No.6007
新橋第一ホテルの宴 - 吉田つとむ 03/20-00:54 No.6008
例えで船は転覆、人は去る - 吉田つとむ 03/20-01:00 No.6009
ガソリン輸入の合理性 - 吉田つとむ 03/20-08:48 No.6010
ベンチャー企業の資金力 - 吉田つとむ 03/22-07:56 No.6064
追記:私が通産省に同行した記憶 - 吉田つとむ 03/20-09:09 No.6011
--------------------------------------------------------------------------------
★ - 楽市楽座(石油の昭和とネットの平成 - 吉田つとむ 03/19-10:51 No.5995

 楽市楽座(石油の昭和とネットの平成)と題する記事は、昭和59年に「GSによるガソリン輸入実現」を試みたライオンズ石油(佐藤太治社長)と、平成17年に「ネット企業によるメディア買収」を比較するものです。

 このライオンズ石油に関する記事は、soulman a go go に分かりやすく掲載されています。
http://ex.sakura.ne.jp/~ere/slg/
〜歪んだ価格への挑戦者、昭和の楽市楽座を夢見る。〜

 以下の記事では、非常に分かりやすく書いてあるので、私の記憶にあわせて参考にさせていただきます。

 一般のガソリンスタンド店に過ぎなかった、ライオンズ石油(佐藤太治社長)が、国の大方針に反して、独自にガソリン輸入事業を試みたのは、昭和59年のことでした。

 当時は、消費地精製主義の下、日本では「原油を輸入し、国内で石油製品に精製する。そのため、個別石油製品の輸入は原則禁止するという行政指導を貫徹する」という原則の経済体制でした。

 これは、基幹産業に安い重・軽油を提供したうえに、一般家庭消費者にも灯油を安く提供する一方で、オーナードライバーが使用するガソリンを高く販売するという石油製品の価格操作を強いていました。結果として、業界ではガソリンの出荷割合を増やせば、容易に利益が出る構造を作っていました。

 これが、「業転物」と呼ばれる「だぶつきガソリン」となって、ガソリンスタンド業界に流通し、系列外のガソリンスタンドを作り出す一因ともなっていました。これらのスタンドでは、一般に元売系列のガソリンスタンドよりの安めに販売していました。

 ゼネラル石油とも取引があったライオンズ石油の佐藤太治社長は、この「業転物」のガソリン確保で多忙な時間を過ごしていました。

 そうして、徹底したガソリン安売り販売を実施していました。時には、業界の反駁を買い、そのガソリンスタンドに少量のガソリンを買う車が動員され、おつりの手配が出来ないような営業妨害行為まで受け、ライオンズ石油が警察に通報せざるを得ない事態にまで発展したことがあったと聞きました。

 こうした安い商品を自由に販売する目的で、ライオンズ石油(佐藤太治社長)は進展して行きました。

 その結果、ライオンズ石油の進出するところでは、既存のライバル店が廃業に追い込まれるケースもおきていました。ともかく周辺店に比べて大幅に安くし、そのお客を大量に奪い取るという手段に訴え、従業員には若い社員を配置し、有能な人材はどんどん幹部に抜擢する手法の経営を行っていました。(私には、こうした社員の皆さんとは、それぞれに他の場所で仕事をしていますが、今のいくつかの付き合いがあります)

 「soulman a go go 」の記事にある、昭和の楽市楽座の夢ものがたりをともに見た間柄です。
--------------------------------------------------------------------------------
代替ガソリンで多大な利益確保 - 吉田つとむ 03/19-11:42 No.5996

 オーナードライバーに安いガソリンを販売するという、ライオンズ石油(佐藤太治社長)の考えは、その強烈な個性で有能な若手社員を呼び寄せ、国道16号線沿いに多数のガソリンスタンドを生み出していきました。

 もとより、それだけのガソリンを集めることは容易でなく、佐藤太治社長により多忙な日々をもたらしていました。

 その頃、ガソリンに代わって使用できる代替ガソリン(フェル=BTX類を主成分とする燃料)の販売を大々的に導入していました。韓国などからの輸入によるものです。当初は多額なガソリン税がかからず、一般石油ルの課税のために、ガソリンよりかなり安い価格で販売しても、リットルあたりで数十円の利益が出ていたようです。この時期に、ライオンズ石油(佐藤太治社長)では高率の利益を確保していたと考えられます。

 なお、この当時に韓国からフェルを輸入していたのは、宮城県の石油販売業者であったと記憶していますが、その記録は持っていません。その会社から、ライオンズ石油(佐藤太治社長)はフェルを卸してもらっていたのではないでしょうか。とにかく、その当時の勢いとはぶりが良かったのが特徴です。

 そうこうしているうちに、このフェルにもガソリンと同率の揮発油税の課税がかけられることになりました。とにかく、この時の法改正は早かった記憶があります。この問題に取り組んでいた、八木大介(本名は、木本平八郎)議院議員(サラリーマン新党所属→私はその第一秘書を務める)も、この法案に賛成しています。

 あわせて、神奈川県石油商業組合は、「JIS(日本工業規格)規格外の商品をガソリンと表示するのは不当」として公正取引委員会に提訴しています。こうした記事は、当時の石油業界専門紙には毎日のように、また経済専門紙でもたびたび掲載されていました。私は、それらの新聞やスクラップブックを、佐藤太治社長からたびたび見せてもらっていました。今にして思えば、そのコピーを作成しておれば、こうした記事がとても作りやすくなっていたのではないでしょうか。

 ところで、このフェルは製品に難点もあったようです。初期のものと考えますが、燃焼不良があることやタンクのゴム部分を傷めやすい
事例が発生していました。事態はどこまで真実か分かりませんが、自動車整備の業界でも、このフェルがエンジン等に悪影響を与えるというキャンペーンをはじめていました。

 このフェルは、こうして急速に販売されなくなっていきました。
--------------------------------------------------------------------------------
昭和の紀伊国屋文左衛門 - 吉田つとむ 03/19-12:57 No.5997

 フェルが販売できない状態で、安いガソリンを安定的に仕入れるにはどうしたらよいか、これはライオンズ石油(佐藤太治社長)にとって、死活問題でもありました。

 各地にガソリンスタンドを建設し、店舗展開を拡大していましたが、そのガソリン販売の絶対量を確保する必要がありました。

 そうした中で、ライオンズ石油(佐藤太治社長)は、ガソリンを海外から輸入することにしました。

 前にも書いていますが、日本は重油や軽油・灯油を安く販売して、ガソリンを高く販売するという国策にしており、石油業界はその指示の元で護送船団方式の生産・販売方法をとっていました。

 そこに挑戦したのが、ライオンズ石油(佐藤太治社長)です。昭和59年12月、シンガポールから直接ガソリン(無縁ハイオクタンガソリン)を仕入れて、日本に船積みしたことを記者会見で発表しました。

 3000キロリットルものガソリンをサザンクロスエイト号という船に積み込み、日本に向け出航させました。

 こうした石油製品の輸入上、法律では届出のみで可能であり、輸入量に応じた備蓄タンクの確保をして置けば、いつでも輸入できるという状態でした。

 ところが、国内では通産省が石油製品の自由な輸入は認めておらず、なんとしてもガソリン輸入阻止の行動に出ることになりました。

 リスクの高い中でのガソリン輸入の取り組みでした。ライオンズ石油の佐藤太治社長は、外国から安ガソリンを運んでくる自分の行為を、「昭和の紀伊国屋文左衛門」と称していました。

 この間は、当時の通産省とライオンズ石油(佐藤太治社長)が、息詰まる戦いを行うことになりました。
 
 こうした情況は、絶えず経済紙には掲載されていましたが、一般の新聞にはそれ程でもありませんでした。今回のライブドア(堀江貴文社長)による「企業買収」ニュースとは大きく扱いが違っていました。その理由は別途考察しますが、話題の相手が「メディア」であることと、資金力の差があるように思っています。さらには、「インターネット」という自己発信装置を備えているということが根本的な相違になっているものと推測します。

 この当時は、私にとっても、最も多忙な時間の時期のひとつでもありました。

* 紀伊国屋文左衛門
 江戸時代に、みかん不足にあえいでいた江戸に、紀州の産地から破天荒な海原にみかん舟を繰り出し、無事送り届けたという実在の事業家。後に、江戸の大火に際しても、木曽の材木を取り寄せ、財を成した人物。商売人にとっては、神様のような存在として有名。
--------------------------------------------------------------------------------
国が取った圧力策 - 吉田つとむ 03/19-14:27 No.5998

 ライオンズ石油(佐藤太治社長)には、安い海外のガソリン輸入をなんとしても止めさせねばならないとした通産省(エネルギー庁)は、ガソリン輸入計画の変更計画を勧告を行っている。

 これに至る以前に、ライオンズ石油(佐藤太治社長)は国に、石油輸入開始届出書と石油輸入計画届出書を提出している。この時の計画では、ガソリンの備蓄タンクを置くのは川崎市内であったと記憶している。他の会社のものを借りる契約を結んでいたはずである。

 この勧告に至るには、石油連盟の建内会長(日本石油社長)が、「通産省が断固とした措置をとるべきだ」と表明する経過をおきている。私の記憶では、当時、この場所に尋ねたことがあるが、それがライオンズ石油(佐藤太治社長)に同行したものか、それとも単独だったか、明確ではない。

 国は、石油審議会から、政府がライオンズ石油にシンガポールからのガソリン輸入に課して、「輸入中止を求める勧告は妥当である」という答申を得ている。というか、当時のエネ庁と石油連盟は見事なほど一体のスタンスを取っていた。

 こうした間に、私は何度も、ライオンズ石油の佐藤太治社長と行動をともにしているが、通商産業省に数回同行した時期がこの時期なのか、別の時期なのか記憶が定かでない。あれだけの緊張感の中で、両者が出会っていたとは理解しがたいと言うものである。

  先にあげた、「soulman a go go」の下記の記事では、
〜歪んだ価格への挑戦者、昭和の楽市楽座を夢見る。〜
http://ex.sakura.ne.jp/~ere/slg/
 では、この間に、「日本鉱業」が「シンガポール産ガソリンは、国産製品に比べて重質であるため、始動性が悪く、排ガスやエンジントラブル等の問題を起こす恐れが大きいという分析結果を発表した」としている。

 これに対して、 ライオンズ石油(佐藤太治社長)は、シンガポール産のガソリンに何の問題もない。日本の規格に合わせて発注していると発表した。しかし、多勢の無勢の感が漂ってきた。

 私はこの間に2度も、議員に代わって質問趣意書を作成している。この間の経緯に関するものであった。
--------------------------------------------------------------------------------
年末年始のクライマックス - 吉田つとむ 03/20-00:07 No.6005

 サザンクロスエイト号の来航は、12月末に迫っていました。

 このライオンズ石油に関する記事は、soulman a go go に分かりやすく掲載されています。
http://ex.sakura.ne.jp/~ere/slg/
〜歪んだ価格への挑戦者、昭和の楽市楽座を夢見る。〜

 以下の記事では、非常に分かりやすく書いてあるので、私の記憶にあわせて参考にさせていただきます。

 この時は、神戸港沖にて、本船から小船に積み替える作業が行われました。(この名称を、○○といったと思いますが、今では思い出せません)この時は、この作業の許可の件で、何度も運輸省に問い合わせをした記憶があります。揮発油の積み替えということで、一部にクレームが出ていました。

 先の質問趣意書では、そのこと(洋上積み替え)に触れたかどうか、その記憶も戻りません。現地には佐藤太治社長と数人の社員が駆けつけ、はっぴを着て、その入港を祝いました。議員の現地に出向きたい旨を話しましたが、「そこまで、佐藤さんに付き合わないようにするべきだ」との返事をもらいました。佐藤社長には、「年末にし残した仕事があり、神戸にはいけない」と話しました。佐藤社長は、そのとき「ぜひとも」とは言っていませんでした。こちらの気持ちが先に出たのか、もともと私が同行することをそれほど期待をしていなかったか、今になっても疑問の一つです。

 この時の「荷=ガソリン」は、大阪港に搬送されたと記憶しています。

 このあと、いよいよ、シンガポールから到着した「サザンクロスエイト号」は東京湾に向かいました。それぞれに「保税タンク」に収納されたと記憶しています。ただし、その時期は年末年始の期間に入っており、「その間の通関業務はない」と私は、佐藤太治社長から聞いていました。

 この時期、私は福岡市に帰省することにしました。現地から、佐藤太治社長に電話をしたこともありました。その時の話では、役所の業務開始日について会話をしています。佐藤社長は、「急いで帰ってくることはない」、と説明されたことが妙に印象的でした。
--------------------------------------------------------------------------------
城南信金の融資ストップ - 吉田つとむ 03/20-00:30 No.6006

 この間には、通産省のよる金融機関への工作で、ライオンズ石油の取引先であった城南信用金庫から融資のストップが告知されました。佐藤社長がそのことを公開していましたので、金融機関の中でライオンズ石油に融資をしようとするところはなかったようです。

 ただし、この時点ではシンガポール石油(SPC)などには、必要な支払いを行っていたはずです。それがないとLC(2億円ほどだったと記憶している)は組めなかったはずですし、現地からサザンクロスエイト号が日本に向かうはずもなかったと考えます。

 先の城南信用金庫の融資ストップは、佐藤社長にとって大変堪えた感じでした。いろいろのところに、融資の話を持ち込んでいました。相手からの接触もあっていた記憶があります。今にして思えば、この分野の本人の知識や社員、及び人脈が佐藤社長には薄かったのではないか、このように思っています。ましてや金融関係の話とは、私には1個ものアイデアさえも浮かばないほどの分野に思えていました。

 この間、佐藤社長は、社員の給与をどうしていたのだろうと思いました。
--------------------------------------------------------------------------------
正月は連絡が取れず - 吉田つとむ 03/20-00:40 No.6007

 帰省先の福岡から、東京に戻りました。この当時は、まだ板橋区に住んでいたように思います。(その後、大田区に移りました。)

 ところが、佐藤社長とは、まったく連絡がとれない状態が起きました。一体どうなったのだろう。気が気でなりませんでした。

 そのうち、そのガソリンは日本鉱業が原料用のナフサとして引き取るという話を聞きました。佐藤社長から、「やむなくコマシャルベース(仕入れ価格に、手数料などを上乗せした価格)で、日本鉱業に手放すことになった。残念だが仕方がない、申し分けなかった」との電話を受けました。

 この間、通産省の官僚と佐藤社長は、直談判をしていたようでした。ともかく強烈な、行政の圧力を受けていたようです。
--------------------------------------------------------------------------------
新橋第一ホテルの宴 - 吉田つとむ 03/20-00:54 No.6008

 本来は、ドライバーに格安のガソリンを提供できるはずのものが、通産省に召し上げられて、ナフサに代わったしまいました。

 佐藤社長の手によって、新橋の第一ホテルの宴会場が予約されていました。8-9日のことであったと思います。見事な料理が出されていました。佐藤社長が涙声で、残念がっていました。列席者は、予想の3分の1にも達しなかったようでした。

 佐藤社長は、社員に「食べろ、食べろ」と声なく、話しかけていました。フェルの業界にいたらしき人物の姿がありました。専門紙の人が数人いました。もちろん、お役人は一人もいませんでした。当初から付き合いが少なかったためか、政治家の姿を見ませんでした。高名な経済雑誌記者もきていました。あとでこの間のことが雑誌にも載っていました。

 宴が終わりました。
--------------------------------------------------------------------------------
例えで船は転覆、人は去る - 吉田つとむ 03/20-01:00 No.6009

 「昭和の紀伊国屋文左衛門」と名乗った「ライオンズ石油」の佐藤太治社長は、こうして敗退していきました。

 ただし、ライオンズ石油には多数のガソリンスタンドがありましたので、それをどうするか、大きく問われる内容をもってての団地生活を思い巡らしの時間をとっていただきました。
--------------------------------------------------------------------------------
ガソリン輸入の合理性 - 吉田つとむ 03/20-08:48 No.6010

 ガソリンを外国から輸入することで、オーナードライバーにそれを安く提供しようという、「ライオンズ石油」の佐藤太治社長の試みは、1967年(昭和59年)初頭に、こうして挫折した。

 大手元売の系列販売の中に、あえて独立系のガソリンスタンドとして、自主的な自前の輸入ルートを確保し、その業界の「楽市楽座」を作ろうとした、「ライオンズ石油」の佐藤太治社長の夢は通産省と石油連盟の手によって、葬り去られてしまったのである。あの国鉄民営化(JR)を実現した中曽根内閣の中で、こうした独立系の民業を圧死させる官庁の行政指導が発揮されていたのである。

 私は、この間の経緯の中で、議員の代わりに質問趣意書を通じて、ガソリン自由化の正当性と通産省の行政指導の不当性を提起したが、この話題がどの範囲で総理の頭の中に入ったか不明である。この質問趣意書の主張するところは政府に伝わったが、その意図は逆に取りこまれ、下記のように、その業界への新規参入を排除する方針へと切り替わってしまった。

 その過程は次のプロセスであった。

 通産省は、翌年には行政指導で禁止してきたガソリン輸入を解禁する方針に切り替えた。そのガソリン輸入解禁の方針は、すぐさま石油審議会に諮問され、業界もガソリンを含む石油製品の輸入自由化の流れを承認した。ところが実際には、驚くことにその自由化が達成されたかと言うと、現実はその逆となったのである。

 なぜなら、それまでは石油製品の輸入は、「通産省への届出」のみで可能であったものが、ライオンズ石油の「ガソリン輸入」騒動を契機に、国内で石油製品の精製設備を有する企業に石油製品の輸入を制限する法律が出来てしまったのである。法律名は、「特定石油製品輸入暫定措置法」と言い、1986年(昭和61年)の成立したのである。

 この法律は、ようやく平成9年(1996年)4月に廃止された。なぜなら、この間に、世界の石油製品の精製情況は多きく変化し、原油の生産国において、大量に生産される時代に変わったことによる。それらの石油製品の精製設備を有する原油生産国からは、日本に向けてもその製品輸入を求める声が高くなったのである。

 こうして、日本におけるガソリンの輸入自由化が始まったのである。果敢な独立企業(今で言う、ベンチャー企業)が試みたガソリン自由化は葬り去られ、外圧によって初めてそれが実現するという、いつものパターンが起きたのであった。
--------------------------------------------------------------------------------
ベンチャー企業の資金力 - 吉田つとむ 03/22-07:56 No.6064

 話が現在と交錯しますが、現在のネットベンチャーの資金力はどこから来るのでしょうか。

 ライオンズ石油の場合は、「株」売買で利益を出そうとしたことはなかったと記憶しています。あるいは、企業買収で利益を上げようとしたこともなかったと思います。ただただ、商品を売買してそこに利益を生み出そうとしていました。運が良い時は、銀行がついてまわり、そうでない時は、銀行がシャッタウトをしてしまった。その点が、ライオンズ石油の佐藤太治社長にとっては、「ガソリン輸入の手続き決行」を通関を済ませる最後の時点で逡巡させました。

 しかし、通産省が金融機関に対して融資ストップという圧力に加えることは予想されたことでした。なぜなら、そうした経済分野では、このライオンズ石油の知名度はかなりの高さを持っていたので、「いざ融資決定」という段階では、どこでも慎重審査に入ったものと思います。

 さて、それでは、「ライブドア」の場合は、どのような資金力を持っているのでしょうか。
 
 もとより、自前の金融機関や証券会社まで有した現在の「ライブドア」などを、ネットベンチャーと呼ぶのが果たして有効かという疑問もあります。しかし、「資金力」の確保という視点では、ライオンズ石油に欠けていた分野が、「ライブドア」には備わっていそうだと期待感がどこかに潜んでいそうです。
--------------------------------------------------------------------------------
追記:私が通産省に同行した記憶 - 吉田つとむ 03/20-09:09 No.6011

 ここに来て、私が通産省にライオンズ石油と同行した経緯を思い出したので、ここに記したい。

 この記憶を思い出させたのは、次のネット記事による。

特定という名の不特定-臨時暫定特定国家
1http://www.yorozubp.com/95-97/970720.htm
1997年07月20日
共同通信社経済部 伴武澄

 引用が長くて、この筆者に申し訳ないが、プロとしてそのまとめ方が上手いので、感心してのこととしてお許し願いたい。

<以下、伴武澄氏の文章の引用>
 しかし、プラザ合意以降の円高で内外のガソリン価格差は広がり、ガソリンを輸入するメリットが大いに出てきた。そんなチャンスにお上に敢然と立ち向かうガソリン業者が現れた。神奈川県を地盤としたライオンズ石油の佐藤社長だ。佐藤社長は、法律通りガソリンの輸入申請をした。驚いたのは通産省の輸入課だった。輸入できる法律があっても「よもや」と考えていたのだろう。業界をすべてコントロールできると考えていた通産省はこの「申請書」を受理しないという手段に出た。

 しかし、佐藤社長は諦めなかった。内容証明付き郵便で改めて「申請書」を送りつけ、シンガポールからの輸入手続きに入った。本来、届け出制度は「受理する」も「受理しない」もない。通産省はここでライオンズ石油に一本取られた。1986年の正月、シンガポールからのガソリンを満載したタンカーの第一弾が大阪の堺港に入港した。なんとしてもライオンズ石油のガソリン輸入を阻止したい通産省は、最後の手に出た。
<以上、伴武澄氏の文章の引用>

 当初、ライオンズ石油のガソリンの輸入申請は、その申請書を提出した際に、その受け取りをするべき輸入化の人員がそれを拒否する方法として、その全員が持ち場にいなくなったのでした。(こうした国のやり方が現在の時点で発生していたら、事態はもっと別の方向に入ったでしょう)

 そのため、何の許可も要らないはずの「ガソリンの輸入申請」は出来なくなりました。

 最終的には、佐藤社長は、内容証明付き郵便で改めて「申請書」を送りつける方法で、その手続きを実行しました。

 この間、私は佐藤社長に同行して、両者の話し合いを見守りました。なぜなら、佐藤社長は短気な面があり、相手の挑発に乗って、取り返しがつかない事態を招くような失敗する可能性があったためです。この思いは、佐藤社長との付き合いで、何度か経験させられました。

 しかし、私にとっては、国家のエネルギー政策の根幹にかかわるような事例に関して、官僚の対応を身近に見させていただく、貴重な体験を得ることが出来ました。ライオンズ石油の佐藤社長には、こうした情況に私を居合わせてもらったことに、今も感謝をしています。
--------------------------------------------------------------------------------
   文頭に戻る 関係記事一覧   HPメインに戻る  吉田つとむHP