昔、作業用のズボンとして着用されていたのがモンペです。そのモンペの生地として利用されたのが、久留米絣です。棉生地ですが、丈夫で長持ちという点から、農作業の女性に愛用されていました。そうした農業のイメージが一遍するとともに、久留米絣の利用は減少したのではないかと思っていました。
福岡に行く前に、事前に話していた小学校の同級生である丸山君からも、久留米絣が見直されて人気が出ているというものでした。内心では、単に一部に愛好者が復活したのだろうと考えていました。

福岡県、あるいは福岡市の特産品として、博多織、博多人形がありますが、それらは極端に需要が減り、業界人の中には、絶滅危惧種と自嘲する人もいるほどです。ただし、現実はもっと厳しく、2-30歳代ではその存在すら知らない人が大半です。私も近年までまさかと思っていましたが、それは自分が過去に、その博多人形を地方の人形屋やデパートに卸す営業職をやっていた体験に基づくものですが、自分がその業界を退く以外の道はほとんどないほどの業界の衰退が置きました。博多織はその前にピークが去り、60年前頃から下り坂になっていました。それも急坂を転げ落ちていくほどでした。和装が極端に減少したのが原因でしょう。

妻は結婚する前、デパートで博多織の販売をしていました。その会社が倒産し、アクセサリー業界の販売に移りました。福岡に進出してきた大丸のテナントにいました。
この時期、博多に行くと、勇壮な山笠を見ることができますが、それは博多人形師が作るものです。名がある、つまり、有名作家にしか依頼は来ません。ただし、博多山笠を博多人形師を製作して、仕事として行うものですが、手間がかかるのですが、その割には十分な収入には見合わないというものでした。人形師の誇りといして、大きな飾り山笠、あるいは舁き山を製作していました。現在もその伝統は続いているのではないでしょうか。博多人形は今から、47-8年までピークで、それから夢から覚めるがごとくに、存在が薄れていったものですが、その時には私は博多人形とはほとんど縁がない業界に移っていました。

さて、久留米絣が今まで続いてきた、新たな客層をつかんでるというものでした。
その久留米絣の作品ー商品を久留米市の石橋文化センターの売店で目にすることができました。
それは自分が思っていた久留米絣の色、柄と大きく異なったものまで幅広くあり、「モンペ」自体が新鮮に思われている、デザインも洋装にあったものまで幅広く製品化され、充実した種類を展開したのが今の時代に適用できているのではないでしょうか。その分野で研究を進められた方々を尊敬するものです。
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