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吉田つとむの経歴 個別記載 5profile



 平成6年選挙時

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5.吉田つとむの秘書時代

 吉田つとむにとって、秘書の時代は2回あります。大きな転機は、サラリーマン生活から国会議員になったことでした。(厳密には、平成19年中に極短期間、私設秘書時代がありますが割愛します)しかも、長年住み慣れた福岡(博多)から上京して仕事をするという一大転換の時期は、33歳の時に訪れました。

<目次>
 1.参議院議員第1秘書時代(公設秘書)
 2.都議会議員秘書時代(私設秘書)


 1.参議院議員第1秘書時代(公設秘書)

 (1)概要

 33歳まで、福岡市でずっとサラリーマンをやっていました。福岡にいた時期からサラリーマンの政治参加が必要と考え、青木茂氏が代表を務める全国サラリーマン同盟に加わりました。同じく、青木茂氏が代表を務める「日本納税者連合」にも加わりました。それらの運動を通じて、昭和58年5月のサラリーマン新党の結成にも深く関わり、参議院選挙に名簿搭載者(候補者の一人)として参加しています。2名の参議院議員誕生に伴い、その一人(木本平八郎=ペンネーム 八木大介)の第1秘書になりました。あわせて、サラリーマン新党の事務局員(合計2名)にもなりました。

 秘書としての特徴的な仕事では、その間に、質問趣意書の作成に2度関わりました。石油製品の自由化問題(再質問を含めて2回作成)、タクシー料金自由化問題に関するものでした。なお、木本平八郎参議院議員は比例代表選出ということもあり、地域周りは基本的にはなく、比較的に広範囲な人たちと接触する機会を得ました。サラリーマン新党の党務も兼務していたのが特徴的でした。

 (2)時期

 参議院選挙に比例代表選挙が導入されることが決まりました。(昭和56か57年のこと)鈴木善幸首相の時期でした。この比例代表選挙というのは、それまでの参議院全国区の選挙が個人に投票するものでしたが、新たに政党(選挙には候補者を名簿で示し、当選順位を政党が事前に決めて公表する拘束式名簿でした)に投票する制度に変えました。この政党の比例代表選挙は海外では一般的な方法ですが、日本では始めての試みでした。最初の選挙では、有名人が各政党のトップに立ちました。後に、名簿順位を個人得票も含めた非拘束式名簿に転換しました。

 この選挙では、動員組織力が限られたサラリーマン新党が議席を得ることは、ほとんど予測されていませんでした。今から考えれば、「チャレンジ」に相当したでしょう。

 昭和58年の参議院選挙は、中曽根康弘内閣のもとで行われました。この選挙で善戦した長期政権になってきました。

 (3)秘書になる契機

 概要に記しているように、サラリーマンから秘書になった契機は、自分がサラリーマンの政治参加の運動に関わったことが契機であり、その運動の中で生まれた政党の議員秘書になったものです。ある意味、当然のことであり、別の意味では半分同じサラリーマン的な要素を持った存在になりました。

 少しわき道になりますが、このサラリーマン新党の結成の背景には、福岡市にいた小林喜幸氏の存在が大きく役割がありました。小林氏は、銀行出身のサラリーマンでしたが、自身が衆議院選挙に無所属で出た人物でもありました。参議院選挙に比例代表選挙が導入されるに当たって、サラリーマンの政党を結成して、有権者であるサラリーマンにその不公平税制の是正を呼びかければ絶大な支持をうるのではないか、と早期から推量していました。とは言え、自身が旗振りではその達成が困難であり、党の象徴となるべき人物やキャラクターが欠かせないのでないかとも考えていました。

 「サラリーマンに必要経費が必要」として裁判を行っていた青木茂氏(サラリーマン新党代表・大妻女子大教授)が中心になり、一般公募の候補者らも加わり、参議院選挙を戦いました。この一般公募に応じて参加して、比例名簿2位になり、当選したのが、先の木本平八郎=ペンネーム 八木大介氏でした。氏は三菱商事の現役社員で作家(日経新聞の懸賞小説募集で1席なった)として、まさにサラリーマン新党誕生に象徴でもありました。

 先の小林喜幸氏はこの時期まで、サラリーマン新党旗揚げに関して、縁の下で支える役割を担いました。小林氏の名簿搭載順位は第3位。公表された党の候補者順位では、次期はリボルビングで順位をつけるとしていましたが、彼から見ると残念ながらその場限りの約束になりました。

 私は、その木本平八郎=ペンネーム 八木大介氏にスカウトされる形で、第1秘書になることで福岡から上京することになりました。この間に、私が大変お世話になった小林喜幸氏ですが、この「上京」が主な理由で小林氏との縁が薄くなる契機になり、さらに縁が切れてしまうことになりました。自分の秘書時代、党の事務局員である時、もっとも残念な思いの一つです。

 上京にあたって、私の仕事は二つが割り当てられていました。秘書の仕事と、サラリーマン新党事務局の仕事です。何の伝統も経験もなく、議員もスタッフもスタートしました。

 (4)秘書の仕事

 秘書の仕事で大きなものは、接客にあるのではないでしょうか。


 次いで、政策立案関係作業があります。当時は、政策秘書の制度がなく、


 (5)秘書の仕事 2

 接客の中で、メディア対応というものがあります。記者氏は、わたしのような秘書を本気で相手にはしていませんが、「情報を取り出す」ことでは、息を抜ける相手ではないことが学習できました。議員がなにかトラぶった時、党が混乱した時、何度も裏を取る取材がありました。 この時の体験で、記者さんを好んでは相手に出来ない皮肉れた性格になりました。     
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 (6)秘書と党事務局員を兼務でスタート

 「政党」職務に関わった人がいなかったことで、私は第一秘書のかたわら、そのサラリーマン新党の事務事務局員と兼務することになりました。政党の仕事がどのようなのか、全く予備知識がないままに、その職務をやることになりました。その事務局はもう一人の事務局員(女性)とたった二人での職務であり、そもそも大きな仕事は無理であったと思っています。ただただ、無我夢中で多岐な人たちと接触していました。

 秘書は、当時、公設秘書2名でした。(今の政策秘書はその後に誕生したものです)第2秘書は、国立の現役女子大生でした。就任直後は、週刊誌グラビアにも登場するような才媛でした。ただし、秘書の女性がそこまで注目されるには、対人関係で困難さが伴う時代でした。特に、私が党務に関わった時間が多く、その困難さに気づけないでいたことも、後から考えると気の毒な思いでした。筆頭秘書として、失格でした。

 ただし、選挙に関わることはたびたびあり、通常の応援活動が数多くありました。また、全く知らない土地と人を相手に衆議院選挙や、市議選挙、市長選挙などに関して現地に入り込み、候補者と一緒に、長期間活動したことが何度もありました。時間も経過して人的な縁が続いている相手は少ないのですが、選挙に対しての辛抱強さはこの時期に生まれたものでした。

 板バサミ


 (6)党の専従事務局員になる。


 2.都議会議員秘書時代(私設秘書)


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