着物の需要が極端に減ってきました。多くの産地では着物メーカーが閉業したり、細々と製造されているに過ぎない事態が生じている中で、和装コートの製造・販売に特化したことで、事業の継続が図られたと思っています。*追記:作成日は7月24日に訂正しました。
私は、妻が「博多織」という伝統的な織物の最大手企業に務めていたこと、さらにその会社がオイルショック以降の激変で倒産したことを内外の情報で知っておりました。その企業にも知り合いの営業マンがいました。当時はとても羽振りが良かったことを覚えています。今から50年前の話です。
また、兄が博多の呉服店に務めていました。総合商社の丸紅が丸紅飯田と言う時代で、繊維産業が日本で有数の産業の時代で、まだ、(和服の)着物売り場がデパート内で幅を利かせていた時代でした。中州では、京都の着物と博多の博多帯が愛用されていました。1960年代のことで、私は子ども時代でした。
私は、1970年代に博多人形と言う伝統工芸品の卸売をメインにする会社で営業職をしていました。その世界では、着物や帯は着物のデザインの中に納まっており、着物産業の衰退より幾分遅く始まりました。私がいた会社は、そのブームが去る前に閉店したことで、私は全く別の分野で仕事を探しています。その後、職業として、伝統産業や工芸品に係ることが無く、現在に至っています。
そうした前置きを書くのは、和装着物と聞くと衰退産業であり、その中で盛衰には関心をもつことがほとんどなく、ノスタルジックな話として受け止める程度でした。
そうした中で、中越地震の支援活動で新潟県十日町市を訪れると、そこではいまだ、着物が地元の重要産業に位置しており、そこでは、大掛かりな「十日町きものまつり」が開催されており、雪まつりのイベントでも、着物ショーがその中でも重要な位置づけがされていました。思えば、大学の卒業式や成人式では、着物の存在は重要な役割を担っている現実がありました。また、最近では、小学生の卒業式でも華やかな和洋装の着物を着ている児童の姿を見るものです。
そうした着物が利用されるケースは、業界人が趣向を凝らしてその愛用の機会を作り、増大を図っているのでしょう。それらを見ると、和装の着物が絶対的に衰退企業とは一概に言えない様相も感じるものです。
中越地震以降、しばらくして、浴衣を作り、今は何着も持っています。また、1年前の正月には、しばらく前に仕立てた着物を着て、人前に現れました。
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吉田つとむHP 町田市議会議員 吉田つとむ
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