4期連続TOP当選 吉田つとむとは?

過去各種選挙に15回立候補し、8勝7敗する。直近の令和4年の市議選に出て勝利し、4期連続トップ当選。個別対応形式のインターンシップが好評で若者育成を図る。自民党を排除された後、現在まで完全無所属、支持政党なし。6期目に議長も務めて改選し、7期目に町田市議選史上最高票を獲得。さらに、8期目は7期目を上回る史上最高票9206票を達成。議会内では「無所属」に参画。ユーチューブ「発見動画チャンネル」を運営。零細企業営業マンを務め、政治経験が長い。ネット関係の著作、講演もある。

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原子力空母エンタープライズの来航と学生の来福2020.6.25記録

所感・つぶやき
現存しない本館は当時のものと同じ写真。前の構造物(地下鉄入口)は、当時地下鉄は無かった。ウキ写真

 1968年1月にアメリカ海軍の原子力空母エンタープライズの佐世保港に来航することになり、それは日本がベトナム戦争の前線基地化すると言う反対と言う視点から多くの反対運動が展開される。学生運動では三派全学連(中核派・白ヘル、社学同・赤ヘル、反帝学評・青ヘル)の主力部隊が博多に到着。機動隊と博多駅で闘争が起き、逮捕者が出るも、後の裁判では警備過剰の次第で学生側は無罪となっています。ちなみに、当時は原子力推進の空母と言うことが、その是非を課題にされるようなものでした。

 その後、学生部隊は福岡市六本松にある九大教養部に到着するも、無血入城することになります。当時の九大教養部長 奥田八二氏がその学生部隊をキャンパス内に受け入れることを決定したためでした。その奥田八二教養部長の判断で、九大では流血事件が避けられたわけです。私は学生ではなかったので、その中にはいませんでしたが、柵の外から伺うと、教養部のキャンパスは、いわゆる解放区の様相でした。

その奥田八二氏は、後の福岡県知事選挙に臨み、盤石の亀井保守県政を打倒した人物です。初当選後、3期連続で知事を務めた人材です。ちなみに、その陣営を組み建てたのが、岩崎隆次郎県評事務局長でしたが、頭脳明晰・大胆戦略の人物でした。私は、当時、サラリーマン新党の前身である「サラリーマン同盟」(実態は薄く、点の状態の組織)に属しており、それが、福岡県知事選では、奥田八二氏を推薦と言う立場を取ったことで、奥田知事候補の選挙陣営に一角に入ることになりました。とは言え、単に同伴的な活動に過ぎないものでした。ただし、新人の県知事候補の陣営の中枢の選挙の運動展開、組織運営の裏舞台を除き、総合的に選挙過程と革新陣営の選挙戦略を学びました。大型選挙の本部に詰める数少ない機会でした。遊説では、大型宣伝カーに乗り、来福された横浜市長の飛鳥田一雄さんと一緒に、終日ステージや車上に立ちました。足に障害を持った方でしたが、車上に上がる時、人の手助けを避ける毅然とした人材でした。あれほどの「選挙士」は滅多にいるものでないと思っています。

 さて、先の原子力空母エンタープライズの来航反対の運動では、国会の爆弾男(強烈な質問をする)として名高い楢崎弥之助衆議院議員(2012年没)がデモ隊の路上座り込みで逮捕される事態も起きています。日本国憲法下で現行犯逮捕された現職国会議員は楢崎が初めてであったとされています。政治家の買収事件などと次元が違って、実質的には政治犯としての逮捕ですので、その行動は野党政治家の鏡でもあるでしょう。なお、私はその楢崎弥之助衆議院議員の選挙をボランティアとして2度応援(事務所&遊説)しています。また、楢崎氏本人の紹介で、国会初当選前の菅直人氏(当時、弁理士)に上京して会ったことがあります。面会場所は、銀座の鳩居堂あたりでした。その後、1986年に本格的に上京して以降は、同氏の大臣時代を含めて何度か遭遇していますが、一度も良い関係は起きていません。

 話を戻して、当時の学生運動、紛争は一世を風靡したものですが、社会的な広がりを見せることがありませんでした。セクトが自分の存在価値をかけて戦うことを期待すること自体が望むべきことではないし、当時の「ベトナム反戦」の一環につながったという次元でのみ評価されるものでしょう。

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