4期連続TOP当選 吉田つとむとは?

過去各種選挙に15回立候補し、8勝7敗する。直近の令和4年の市議選に出て勝利し、4期連続トップ当選。個別対応形式のインターンシップが好評で若者育成を図る。自民党を排除された後、現在まで完全無所属、支持政党なし。6期目に議長も務めて改選し、7期目に町田市議選史上最高票を獲得。さらに、8期目は7期目を上回る史上最高票9206票を達成。議会内では「無所属」に参画。ユーチューブ「発見動画チャンネル」を運営。零細企業営業マンを務め、政治経験が長い。ネット関係の著作、講演もある。

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政党誕生・発展・盛衰2、れいわ新選組の繰り上げトラブルとサラリーマン新党の破綻の経験2023.12.29

政治問題
サラリーマン新党1983年(昭和58年)参議院比例区2議席:最終日の銀座遊説。この選挙カーを名古屋~九州~北海道~東京まで他のメンバと共同で運転し、銀座まで乗り込みました。

 政党誕生・発展・盛衰2、れいわ新選組の繰り上げトラブルとサラリーマン新党の破綻の経験2023.12.29を書きました。この記事は、政党誕生・発展・盛衰1、参政党のトラブルとサラリーマン新党の破綻の経験2023.12.29 の続きで書いたものです。
 れいわ新選組は、衆議院議員3名(比例区)、参議院議員5名(比例区)が現職議員、参議院議員の水道橋議員が病気辞職したことに伴い、その後は比例候補を1年交代のローテーションで繰り上がることを明らかにするが、その1年を直前にして、当事者と調整が付かず、(山本代表2023年12月13日発表)現在の大島九州男参議院議員が当面そのままになった。当初から、マスメディアを中心に議員のたらいまわしと批判があったが、それを意に介しない立場をとってきたのが山本代表の持ち味だったが、当事者の立場からその繰り上げ入れかえは無理となった。急に起きたような話だが、それはそれぞれの政治家のスタンスから起こりうる話であり、今後はその埋め合わせに山本代表は奔走することになる。つまり、比例で繰り上げを期待して、勉強を重ねてきた人がどうなるのか、その議員候補としてはぬか喜びになったわけである。

 サラリーマン新党は、参議院選挙に比例代表選挙が導入されると決定された直後から、その準備がされた政党であった。参議院全国区の選挙に立候補したのが、大妻女子大学教授の青木茂氏(その選挙前には、愛知教育大学教授)でしたが落選し、その後もサラリーマン同盟の代表を名乗り、選挙の機会をうかがっていた。それが初の比例区選挙に打って出ることに転戦して成功した次第である。ちなみに、野末陳平氏は、その時には東京選挙区に立候補しており、その3年後には、比例区選挙に税金党の名前で候補者を立て、1名の当選者を出している。つまり、双方は(政党名を選ぶ)比例区選挙でライバル関係になった。
 1983年(昭和58年)7月に参議院選挙が実施されるが、サラリーマン新党は10名の候補者(名簿登載者)をいち早くそろえ、5月には順位をつけて発表している。*この第一回参議院比例代表選挙に届け出た政党で、最も候補者名を順位も含めて全員発表したのがサラリーマン新党であった。
 当時、順位は固定の拘束順位に限られていた。実際には、その選挙に出る候補者を探すのは難しく、自分が当選可能性があれば頑張るが、それがないでは頑張れるものではないという事態がどの党にも発生し、自民党はその前日だけに順位を発表するという奇想天外な方法を用いて、選挙まで候補者をひぱってきたのある。もちろん、自民党は混乱した。

 それぞれの政党が工夫を凝らし、あるいは候補者の選考、発表で藻屑と消え、ともかく出揃えた政党のみが、選挙にエントリーできたわけである。厳しく熾烈な選挙であった。小さな政党にとっては、1名の当選者を出すために9名の人柱を必要としたのである。現実的な手法として、比例区に1人、選挙区に9人を立てる政党もあったし、既成の政党(5名以上の国会議員)であれば、最低数を擁立するものも出たのが実情であった。しかし、それらは大半が徒労に終わり、新興政党ではきっちり比例区に10名の候補者をそろえた政党の中で日の目を見た政党が誕生したわけである。その一番の理由は、選挙公報の大きさが新聞紙の半面を占めることができ、その人数をかけると順次スペースが減少されることが大きな原因であった。他方で、それをクリアするには、選挙区の倍の供託金を事前に提出する必要があったのである。また、新聞の政党広告枠(国費で支出される)も人数で増減する。*新聞広告は昔より減少したのではないかと思うが、その部門から外れて長いために詳細は知らない。
 サラリーマン新党はそれをクリアし、10名の候補者をそろえたが、それに至るには、候補者になる野心家、冒険者を集める必要が生じた。いや、政治的には殉教者の集合が必要でした。私は7位の順番が割り与えられた。新聞記者から、「あなたは当選すると思っているか」と何度か尋ねられた。その時点では、当選者数の評価ゼロ、奇跡的に1議席があるかもしれないという評価であった。

 逆に、左派系のMPD(平和と民主運動)という団体が全国的なネットワークを持っており、1議席を占める予測が盛られていた。そのMPD(平和と民主運動)は、その後も私が知っているだけでも相当数に記すべきことがいくつもあるが、延々となるために以下省略。現代的には、現在の山本太郎参議院議員が1期目、東京選挙区で無所属当選する。その運動を担ったのがこのMPD(平和と民主運動)に連なる運動体である。そのメンバーは献身的な行動を示すが、それはMPD(平和と民主運動)の前身である、新左翼の潮流の一派につながる伝統を培っている。それが、現在に至るも連なっているが、その過半は、地方議員も「市民派」という名称で各自治体に1名ほどの生み出す能力を有しており、山本太郎参議院議員の国会議員選挙における候補者選定の特性性が選挙の得票では大得票を得させる結果につながっている。直近の参議院議員選挙でも2議席を得て、一般の政党にほぼ変わらない支持を受けている。共産党や国民民主党がそれぞれ3議席で、このれいわ新選組が2議席、その他の、参政党、社民党、NHK党がそれぞれ1議席を得て、投票率2%を超している。専門家には驚異的と思える得票の数字と率を得ている。れいわ新選組は得票数で2,319,156票、得票率で 4.4%である。

 ただし、議員誕生後に問題が生じた。当選した水道橋博士が登院できない状態が続いた。原因がうつ病とされたが、国会議員(地方も含む議員一般)に休職はなく、それで欠席が容認されることがなく、それより、少人数の政党の場合、会議の欠席者が出るだけでその政党の戦力ダウンにつながり、議員辞職にい当たり、次点の元議員が比例繰り上げの措置が取られ、そのまま参議院議員:大島九州男氏が1年間続いてきた。当初の発表では残り5人の候補者が1年ごとに交代する制度を発表すると、批判が出始めたが、その1年がいざ立ってみると、本人は辞職する意思がなく、間もなく1年が来る。実際には、このまま大島九州男氏が辞めない前提に動いている。山本太郎参議院議員の意向が通じないでいる。
 振り返って、山本太郎参議院議員が国会で何ができたか、れいわ新選組が政党としてどのような活躍ができたかというと疑問点の方が多い。ただし、左派系の不振の中で、「反対」の意思表示だけで一定の存在感を示していると言えよう。
 ただし、選挙民は移り気である。成果を出すことを常に期待する。次には、凡庸と判断されるかもしれない。果たして、れいわ新選組に対して、次がどこまで待ってくれるかわからない。
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