この記事は、①昨日は、松濤美術館で開催中の「私たちは何者?ボーダレス・ドール展」を鑑賞2023.08.11記 の続きです。
人の代わりをしてくれるのが人形の役割の一部だと理解しています。私自身は、博多人形という工芸品の卸販売が青春時代の職業でした。人の直接的な生活ではなく、生活のゆとりを構成する分野とかかわる仕事ですが、有意義な職業だったと理解しています。その後、会社が整理されたこと、業界が不振に陥ったことで縁が無くなりましたが、何かにつけ、思い出されるのが人形です。
私がその博多人形界にいた時代は、他に、日本人形、フランス人形がデパートの人形コーナーに並び、その販売を競い合っていました。多くの個人宅に床の間があったり、飾りの棚があった時代でしょう。人形のケースと一緒に購入されることが特徴でした。今の時期まで多くが残っているのは、節句人形でしょう。桃の節句の雛飾り、端午の節句の五月人形(兜をかぶりか、持った子どもの人形)は現在まで多くの家庭で飾られる伝統が続いているのではないでしょうか。*家族が減少していることは別の社会問題でしょう。
同じ時期には、子ども用にビーバー人形(アメリカ)、リカちゃん人形(日本)があり、デパートのがん部売り場では覇を競いあっていましたが、日本ではリカちゃんが圧倒的に優位に立ったようですが、その時代以降、私がデパートに出入りする卸売りの職業にはついておらず、詳細は分かりません。
その他、人形と言えば、デパートを中心にマネキン人形もありますが、それ自体が販売の対象にされることは無いもので、見かけることはたびたびありましたが、業界的にはほとんど縁がありませんでした。
ここで初めて見たものに、「生人形」というものが在りました。歴史上の人物を象ったもので、展覧会で一番戦慄を覚えたのは、松江の処刑(吉村利三郎・昭和6年)という作品でした。等身大で、木と胡粉と布で出ているとの説明でした。改めて、その作品をネットで調べると、それを作ったのは博多人形師の吉村利三郎であり、通常の粘土を素焼きした博多人形と異なり、博多山笠の人形と同様な製法で作られたものだと理解しました。博多人形師が愛媛県松山の歴史に残る逸話を現代まで伝える役割を担えたことに感慨を覚えました。参考:襲ってきた男を刺した〝罪〟200年の間に起きた「生き人形」の変化 「貞操を守った象徴」から「自分の意思を貫く存在」へ(2020.11.18:朝日新聞松山総局記者・寺田実穂子)
私が製作中の博多山笠を見たのは、博多人形師の置鮎与一さんの工房でした。当然、それ自体を身にいたのではなく、注文していた通常の博多人形を引き取りに行った時のことでした。
その他では、人形制作は時代にも反映されるもので、戦時には戦争や戦争に関連する作品が出来上がり、愛欲を象る人形も専門的に作られており、いわゆる「秘宝館」に展示される類と関連する作品も展示されていました。松涛美術館がその配置にも工夫を凝らした経緯がわかりました。
話が戻って、博多人形のことを書きましたが、人形が美術品として作られる過程に、博多人形師の小島与一さんが貢献していること、世界に普及する任を果たしたことを書きましたが、より、美術品製作に転化していく人々が現れており、現在に至っています。展示のそれらの中には、堀柳女のように優れた構図のものに目が向かいました。
さて、現在では、人形と言えば、フィギアが大きな人気を博しています。愛好家の世界に留まらず、映像に出てきたり、もっと大胆な構図、あるいはデフォルメされたものが街中に出てきたり、大阪のそれのようにそれが物議をかもすこともありましたが、大阪維新の会の力の前にはそうした発言は無力で押しつぶされるほかないのが実状です。私はあくまで、個人が愛好する作品の世界、制限を持った展示の世界の表現と理解するものです。ただし、人形が今後とも、フィギアを中心とする時代は当分続くものでしょう。その意味で、松涛美術館の設定テーマがあるのではないでしょうか。
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