4期連続TOP当選 吉田つとむとは?

過去各種選挙に15回立候補し、8勝7敗する。直近の令和4年の市議選に出て勝利し、4期連続トップ当選。個別対応形式のインターンシップが好評で若者育成を図る。自民党を排除された後、現在まで完全無所属、支持政党なし。6期目に議長も務めて改選し、7期目に町田市議選史上最高票を獲得。さらに、8期目は7期目を上回る史上最高票9206票を達成。議会内では「無所属」に参画。ユーチューブ「発見動画チャンネル」を運営。零細企業営業マンを務め、政治経験が長い。ネット関係の著作、講演もある。

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捜索:大組織と卓越した個人の能力、小野田寛郎さんを一人で発見し、時間をかけて日本に連れ戻せた鈴木紀夫さん2024.2.3

所感・つぶやき
自分が電動キックボードに乗って走った当時の写真

 以前、子どもが近くの海に出かけて行方不明になった時、多数の人を繰り出して捜索したが見つからず、一人のボランティアさん(のちに、スーパーボランティアと称される)が単独でその子どもさんを発見して、二人で山から下りてきた例がありました。孤独の中にあった子どもさんをたった一人で探し出したわけですが、大部隊の組織的な捜索で見つからず、卓越した個人がその天性で居場所を検討つけ、そこに至り、優しく話しかけ、二人でふもとにおり、親御さんに引き渡した明るいニュースとなりました。
 孤独と言えば話は変わりますが、旧大戦(太平洋戦争)の敗戦後(無条件降伏)も、一人やごく少人数で生き抜いて生還した人たちがいます。アメリカ領グアム島で28年間一人生き抜いた横井 庄一さん(最終階級は陸軍軍曹、勲七等青色桐葉章叙勲)です。
 さらに、戦後29年間を経て、本土に帰還した小野田 寛郎さん(最終階級は予備陸軍少尉、陸軍中野学校出身で知られる。)がおられます。その際は、1972年最後まで小野田 寛郎さんと同じく、太平洋戦争における日本の無条件降伏を知らず、自分への命令に従って戦って続けていた方がもう一人いました。それは上等兵の小塚金七さんと言い、発見・帰国に至る直前に不幸にも現地警察と抗争中の死亡されています。その間にも小野田 寛郎さんを発見に何度も大捜索隊が遠征して現地の捜索活動をしましたが、ついに発見できずにいました。それは捜索隊(家族も加わった)がいかように呼びかけても、「投降」に至る生き様を排除した、命令に忠実に生きる、外部の情報を自分を「投降」に陥れようとする戦闘状態と理解していたからでした。*(吉田注)もちろん、これについては諸説がある。簡単に言えば、「戦士」への理解に欠いた呼びかけであったのでしょう。
 つまり、小野田さんたちは、国や部隊長の命令を受けて、戦争を継続する戦士として現地で生き続けており、国家命令の逃亡者とは異なっていたからです。その思想をよく理解した、一民間人である鈴木紀夫さんという一人の冒険家が、小野田さんを単独で発見し、帰国交渉の当事者になったことが記憶に残ります。実際に、鈴木紀夫さんが小野田寛郎さんを発見、遭遇、対談して、2年を経過して、鈴木紀夫さんが小野田寛郎さんを伴って帰国しています。その間に、小野田寛郎さんが鈴木紀夫さんに発砲していたら、そして鈴木紀夫さんがけがや死亡に至っていたら、小野田寛郎さんが現地の人から襲われたら(その可能性は大いにあった)、あるいはそれに、従前に戻って小野田寛郎さんが抵抗したらなどなど、さまざまのリスクを超えて、国民を感動させる帰国が実現したものです。

 実は、鈴木紀夫さんはその後も冒険家として過ごし、ヒマラヤに雪男を探しに複数回行って、1986年にヒマラヤで遭難したこと、その後、小野田寛郎さんがヒマラヤまで訪れ、その鈴木さんの慰霊をしたことは現在に至るまでその両者のエピソードとして永遠に残っています。その間に、鈴木さんも、小野田さんも結婚をしていますが、鈴木さんの冒険は死ぬまで続き、小野田さんは、その後ブラジルに渡ったり、さらに日本に戻ったり、多岐な人生を過ごし、多様な評価を残している。そうした中で、私は鈴木紀夫さんを稀有な人物と唯一遭遇しえた人物で、英語でいうピュアな精神を有した人として評価していることを記したい。
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